第2話:記憶の消失(デバッグ)

「現場は、世田谷区にある先端医療研究所の地下実験室よ」

藤堂の運転する漆黒の大型SUVが、夜の首都高速を滑るように駆け抜けていく。後部座席では、比嘉が膝の上に載せたノートPCの画面に吸い込まれるように爆速で指を走らせていた。

「賢人先輩、被害者のデータ出ました!被害者は同研究所の首席研究員・神崎崇(かんざきたかし)(42)。専門は微小管(マイクロチューブル)における量子コヒーレンスの研究です…!」

「微小管…エラさんが言っていたOrch-OR理論のド真ん中ですね!」

賢人が隣で静かに頷く。エラは窓の外の夜景に目をやりながら、東洋的な深い眼差しで呟いた。

「神崎博士は、脳内の量子状態を外部から観測・記録する『量子脳マッピング』の第一人者だったわ。…もし彼の研究が完成していたとしたら、人間の記憶や体験の質感(クオリア)そのものをデータとして外部に保存することが可能になる」

「記憶おクオリアの保存…⁉」比嘉が目を見開く。

「ええ。でも、現場の状況はそんなSF染みた話じゃないわ」

運転席の藤堂がミラー越しに鋭い視線を送る。

「神崎博士は、密室状態の実験室で観測用のレザーチェアに深く体を傾けたまま息を引き取っていたの。死因は心不全。だが…彼のデスクに残されていた手記とPCのログには、まったく別の『ありえない過去』が記録されていたわ」

「ありえない過去、ですか?」

「『自分は10年前にこの研究所を退職し、別の大学で教授を務めていた』…そんな現実とは180度異なる詳細な日記と、それを裏付ける偽造不可能なタイムスタンプ付きの電子データが残されていたの、本人の脳の記憶も、完全にその『偽りの過去』に上書きされた状態で息絶えていたわ」

「物理的な脳に一切傷を付けず、記憶と観察記録だけを書き換えた…」賢人が眼鏡のブリッジを押し上げる。「面白い。まさに『現実のバグ』だ」

車は10分後、重々しい警戒状態がしかれた研究所の地下駐車場へと滑り込んだ。

エレベーターで地下3階へ降りると、黄色の立ち入り禁止テープが張り巡らされた実験室の前で、鑑識員課員たちが忙しく立ち働いていた。

「藤堂警部!本部からこの現場、すでに検証終了と…」

「私が責任を持つわ」

藤堂は立ち止まることなく、172cmの長身から圧倒的な威厳を放ちながら鑑識の前に立ちはだかった。ダークグレーのロングコートをひるがえし、一切の反論を許さない鋭い眼光で鑑識課長を射抜く。

「15分だけ中を使わせてもらいましょう。…文句があるなら、本部長に私から直接電話させようか?」

その圧倒的なオーラと覚悟に圧され、鑑識課員たちは生唾を飲み込んで黙って道を譲った。

「さすが藤堂さん…やっぱりかっこいいです…!」比嘉が感動で瞳を輝かせる。

「比嘉さん、感心している暇はないよ。15分でこの部屋の『観測エラー』を暴く」

賢人を筆頭に、チームslaboが密室の実験室へと足を踏み入れた。

実験室の中央には、巨大な磁気遮断カプセルと、神崎博士が倒れていたとされるレザーチェア。周囲には無数の精密測定器とモニターが並んでいる。

「エラさん、室内の量子環境のチェックを。比嘉さんはサーバーのアクセスログと、博士が遺した『偽りの日記』のタイムスタンプの相関関係を爆速で洗ってくれ」

「了解ですっ!スパコン経由でタイムスタンプの暗号キー、ハッキング解析入ります!」

比嘉の指が、キーボードの上で残像を描くほどの速度で動き始める。

エラは、静かな足取りで部屋の隅へと歩み寄り、壁に設置された観測用センサーに繊細な指先を触れさせた。黒髪がすっと揺れる。

「…賢人。この部屋、おもしろい『歪み』があるわ」

「歪み…ですか、エラさん?」

「ええ。室内の環境データログ…温度、湿度、そして微小磁場の変動周期が、現実の時間軸とわずかに0.003秒だけ『ズレて』ループしている。まるで、この部屋全体が巨大な『量子もつれの遅延回路』になっているみたい」

賢人の瞳が、不敵な光を宿した。

「なるほど…!過去が書き換わったのではない。神崎博士の脳とPCは、『0.003秒のズレを無限に演算させられることで、存在しない過去を正解だと誤認識させられた』んだ!」

「えっ…⁉ど、どういうことですか賢人先輩⁉」

ノートPCを叩いていた比嘉が叫ぶように振り向く。

「比嘉さん、君が初陣で解いた『参照ループ』と同じ原理だよ。犯人はこの部屋の観測装置に『仕掛け』を施し、神崎博士の脳波データをフィードバックループにハメ込んだんだ。…だが、なぜそんな手間をかけて博士の記憶を書き換える必要があったのか?」

その時——

「――そこまでにしてもらおうか、チームslabo」

実験室の影から、静かな、しかし冷徹な声が響いた。

暗がりから歩み出てきたのは、白衣を纏った精悍な男。神崎博士の共同研究者であり、研究所の副所長——蒼井蓮(あおいれん)(35)だった。

「部外者が警察権力を盾に現場を荒らすとはね。……椎名賢人くん、君のその優秀な脳も、ここでは無力だ」

蒼井がポケットから取り出した小さなデバイスのスイッチを押した瞬間、実験室の全モニターが真っ赤なエラー表示へと切り替わった!

《WARNING:QUANTUM FEEDBACK LOOP INITIATED》

「しまっ……!スパコンからの接続が強制遮断された⁉賢人先輩、私たちのPCと脳波観測器が同期させられて行きますっ!」

比嘉の悲鳴が地下実験室に響き渡る。

神崎博士を死に追いやった「記憶消去(クオリア・デバッグ)の罠」が、いまチームslabo全体に襲いかかろうとしていた――!

第2話:記憶の消失(デバッグ) 『完』

次回[第3話:虚構と過去と、デバッグの攻防はこちら➡]

作品目次:[『天才サラリーマン椎名賢人の事件簿‐その科学デバッグします第2部‐』全話一覧はこちら➡]

第1話:量子の迷宮の観測者

警視庁捜査一課、特別応接室

デスクの上に並べられたのは、先端医療研究所で起きた「記憶とクオリア(感覚)の消失事件」に関する不気味な捜査資料だった。被害者の脳にも身体にも一切外傷はなく、ただ記憶と意識だけが別の過去へと書き換えられた上で息絶えている。

鑑識もサイバー犯罪対策課も「科学的には説明がつかない」と頭を抱える中、洗練されたダークグレーのロングコートを羽織った藤堂玲香警部が、不敵で魅惑的な笑みを浮かべた。

「上はお手上げのようね。…さて、次は『あの方たち』の知恵を借りに行くとしましょうか」

雑居ビルにある『slabo(エスラボ)』の事務所には、変わらない温かな朝の風景が広がっていた。

「賢人兄ちゃん!コーヒーの豆、いつもの深煎りでよかったよね?」

のあが給湯スペースから焼き立てのトーストとコーヒーを運び、賢人はデスクで静かに手帳へ目を通している。

「ああ、ありがとう、のあ。その方が思考のギアが上がる」

部屋の壁際、マルチモニターが並ぶ専用デスクでは、成長した比嘉瑠菜(25)が凄まじい手つきでキーボードを叩いていた。かつて新入社員だった頃の面影をのこしつつも、その指さばきは洗練を極めている。

カタカタカタカタ、ターン—!

「よしっ…!社外スパコンの分散処理用ポート、確保完了です!賢人先輩、いつでも暗号化ファイルの展開いけますっ!」

「素晴らしい手際だよ、比嘉さん。君の成長にはいつも驚かされる」

「えへへ…賢人先輩にそう言っていただけると嬉しいですっ!」

照れる比嘉の横で、カフェスペースに立つ東洋的な美女—エラ・ヴァンスが、静かに紅茶の茶葉を選んでいた。深みのあるアッサムの香りが部屋に広がる。

「ふふ、比嘉ちゃんのタイピング音、まるで心地よい音楽のようね」

カツン、カツン、カツン——

その時、階段から響く力強いヒール音。

扉が開き、藤堂が静かに足を踏み入れてきた。コートの裾をなびかせ、部屋のメンバーを見渡す。

また、あなたたちの知恵を借りに来たわよ

藤堂のその一言を合図に、賢人はペンを置き、比嘉はノートPCを抱えて立ち上がり、エラは淹れたてのティーポットを手にする。

それぞれの作業スペースにいた全員が、吸い寄せられるように中央の大きな木製の「丸テーブル」へと集結した

藤堂はコートのポケットから捜査用タブレットを取り出し、丸テーブルの中央にすっと滑らせた。画面には、事件現場の写真と、不可解な脳波ログが映し出されている。

「今度の事件は、ただの殺人やデータ強奪じゃないわ。…被害者は先端医療研究所の首席研究員。密室の実験室で座ったまま息絶えていたのだけど、身体にも脳にも一切の外傷はなかったの」

「外傷がない…心不全か何かですか?」比嘉が丸テーブルのタブレットを覗き込む。

「ええ、死因は心不全よ。だが…彼のデスクに残された手記とPCのログ、そして本人の直前の脳波データには、『自分は10年前に研究所を辞め、別の人生を歩んでいたというありえない記憶が記録されていたわ。本人の記憶とクオリアだけが、丸ごと『存在しない過去』に書き換えられていたのよ」

「記憶とクオリアの書き換え…⁉」比嘉が息をのむ。

「ええ。そして現場に残されていたのは、この謎の脳波ログと、微小な量子もつれを示す波形データよ」

賢人が静かに頷き、スマホを比嘉のノートPCに同調させた。

「比嘉さん。現場の量子波形データと脳波ログを、君の最新アルゴリズムで多次元展開してみてくれるかい?

「はいっ、任せてくださいっ!」

丸テーブル上で比嘉の指が爆速で駆け巡る。数秒もしないうちに。モニター上に複雑な多重量子波形と脳回路のモデルが組み上がっていった。

その画面を凝視していたエラが、東洋的な深い瞳を微かに細め、静かに口を開いた。

「…やはり、これは『量子生物学』の領域に踏み込んだ犯罪ね」

「量子生物学…ですか、エラさん?」

比嘉が振り返ると、エラは全員の前に温かいアッサムティーを差し出しながら、静かな声で語り始めた。

人間の意識や、体験の中にある『言葉では完全には伝わらない質感』…いわゆる『クオリア』は、脳内の微小管(マイクロチュール)における『量子的重ね合わせ』によって生み出されている説(Orch-OR理論)があるの。…もし犯人が、観測者の意識介入によって脳内の量子状態を外部から操作し、記憶の因果律そのものを『書き換えた』ように見せかけているのだとしたら…」

「なるほど」

賢人が眼鏡のブリッジをスッと押し上げ、不敵な笑みを浮かべた。

「過去が実際に書き換わったのではない。『そう観測せざる得ない罠』が仕掛けられているだけだ。…チームslaboの力、お部見せしましょう。

-第1話:量子迷宮の観測者――【完】――

次回 第2話:記憶の消失(デバッグ)はこちら➡

『天才サラリーマン椎名賢人の事件簿ーその科学デバッグしますー』全話一覧・目次はこちら➡]

【作中に登場した用語の解説】

物語の中で賢人たちが解説していた「量子生物学」や「Orch-OR理論」について、さらに詳しく知りたい方はこちらの解説記事も併せてお読みください。

第3話:0.1秒の真実と、始まりのチーム

「ここが現場の、地下第3サーバー室よ」

藤堂の先導で地下深くへと降り立ったチームslabo。厚さ20cmを超える重厚な防爆扉の前には、警察の立ち入り禁止テープが張り巡らされていた。

サーバー室は、冷却ファンの重低音と、青白いLEDの明滅だけが支配する無機質な空間。足元からは冷たい空気が吹き上がってくる。

「ひえぇ…寒いですし、なんか雰囲気が重いです…」

身を縮こまらせる比嘉の手元で、ノートPCの画面が青く光る。

「比嘉さん、寒さで指の速度を落とさないでくれよ」

「は、はいっ!ローカルネットワーク、いつでもアクセスできますっ!」

藤堂は腕を組み、防爆扉の電子ロックを指し示した。

「事件発生時、この部屋のドアは内側からも外側からも完全にロックされていたわ。カードキーの履歴も一切なし。カメラにも誰も映っていない。…なのに、最奥のメインサーバーから

極秘データだけが消えた」

「…物理的な密室、そしてログ上の密室ね」

エラが静かに歩み寄り、サーバーラックの金属フレームに繊細な指先を沿わせた。黒髪が冷気でかすかに揺れる。

「賢人。空気の流れと、サーバーの排熱データに『不自然な斑(まだら)』があるわ」

「ああ、エラ。僕も気になっていた」

賢人は胸ポケットから自作の波形測定器を取り出し、メインサーバーの排気口へと向けた。

「藤堂さん。犯人はこの部屋に入っていません。だが—『部屋の外部から、物理的に内部データを書き換えた』」

「外部から物理的に…⁉そんなこと可能なんですか⁉」比嘉が驚愕して目を丸くする。

「ああ。比嘉さん、君が事務所で見つけた『参照ループ』のバグだ。犯人はネットワーク経由で参照ループを発生させ、サーバーの処理を意図的にコンマ数秒フリーズさせた。…。そしてその『一瞬の隙』に何をしたと思う?」

賢人は眼鏡のブリッジをスッと押し上げ、サーバーラックの隙間、目立たない配線ダクトの根元をさした。

「高出力レーザーの共振による『光磁気データの直接消去』だ。サーバーの冷却ファンが最も強く回転し、微小な振動が発生する0.1秒の間だけ、レーザーの干渉波を照射して磁気データを物理的に破壊・転送したんだよ」

「レーザー干渉…⁉だから排熱データに斑があったのね!」比嘉の指がキーボードの上で爆速で跳ねる。「ありました!23時14分02秒、ダクト内部の光学センサーに、0.1秒だけ異常な屈折率の記録が残っていますっ!」

藤堂が目を鋭く光らせ、長身を大きく乗り出した。

「つまり…この建物の配管構造を知り尽くし、レーザー照射器を事前に仕込めた『内部人間』が犯人ってわけね」

「正解です。そして、そのログを消去するために使われたプログラムの記述…」

賢人が自らのスマホを比嘉の画面に同期させ、一瞬でアルゴリズムを解読してみせる。

「―このコードの癖、管理責任者であるシステム部長の筆跡と完全に一致します」

「…勝負あったわね」

藤堂の口元に不敵な笑みを浮かべると、無線機を取り出した。

「捜査一課、藤堂だ。今すぐシステム部長を拘束しなさい。証拠は…そうね、『0.1秒の光のログ』よ」

地下駐車場へ戻るエレベーターの中、藤堂は疲れを吹き飛ばすようにフッと息を吐いた。

「見事なデバッグだったわ、椎名賢人。…そして新人ちゃんも、ナイスアシストよ」

「えへへ…!賢人先輩と藤堂さんに褒められちゃいましたっ!」

比嘉が嬉しそうに胸を張ると、エラが温かな眼差しで微笑む。

「ふふ、これでチームslaboの初陣は成功ね」

賢人は静かにジャケットの襟を正し、夜の街へと続く出口を見上げた。

「矛盾(バグ)がある限り、僕たちのロジックはとまりませんよ」

こうして、チームslaboの記念すべき最初の事件は鮮やかに解決した。そして数年後、更なる強敵と「量子生物学の迷宮」が彼らを待ち受けていることを、この時はまだ誰も知らない—。

『天才サラリーマン椎名賢人の事件簿‐その科学デバッグします‐第1部』

第1部:交錯するロジック 【完】

次回第2部『量子因果の迷宮』第1話:量子の迷宮の観測者 はこちら➡ 

作品目次:[『天才サラリーマン椎名賢人の事件簿‐その科学デバッグします‐』全話一覧はこちら➡]

第2話:密室のバグと、バケモノの『超思考』

「いいでしょう、藤堂さん。—その科学、デバッグします。

賢人の言葉を聞いた藤堂は、差し出されたアッサムティーの湯気をくぐらせるようにして、不敵で魅惑的な笑みを深めた。

「頼もしいことね。…じゃあ、まずはこの『バグだらけの現場写真とデータを見てもらいましょうか』

丸テーブルの中央に滑らせた暗号化端末から、ホログラムのように青いデータが宙に浮かび上がる。広げられたのは、大手IT              企業『ゼノ・データ・システムズ』の地下データセンターで起きた『完全密室でのデータ強奪事件』の捜査資料だった。

データだけが物理的に消失しているのよ。警察のサイバー犯罪対策課も鑑識も『物理的に侵入者は存在しない』とお手上げ状態だわ」

藤堂の説明を聞きながら、賢人は静かにデータをスマホ経由で比嘉のノートPCへと転送した。

「比嘉さん。君のその素晴らしい着眼点で、このログのタイムスタンプを見てごらん。…違和感に気づくかい?」

「えっ……?は、はいっ!ええと……!」

突然の指名に焦りつつも、比嘉はノートPCのキーボードに爆速で指を走らせた。画面に並ぶ膨大なバイナリーコード。新入社員である彼女の額に、じんわりと汗が浮かぶ。

「あ…!賢人先輩、ここです!23時14分02秒のアクセスログ、ミリ秒単位のデータ記述に『参照ループ』が起きてます!見かけ上は正常に動作しているフリをして、処理を無限に足止め(ウェイト)させてますっ…!」

「正解だ、比嘉さん。実に素晴らしい眼力だよ」

賢人が優しく頷くと、比嘉の表情が「えへへ…!」と一気に明るくなった。

賢人はそのままスマホの画面を軽くタップし、膨大なログの中に隠された『矛盾(バグ)』を一気に突き崩す独自の数式を展開してみせた。

打鍵音すら鳴らない。わずか数十秒—。丸テーブルの画面上で、偽装されていたサーバーの真のアクセスログと、データ消去の手口が鮮やかに解き明かされていく。

静まり返るslaboの事務所。

藤堂はゆっくりと歩み寄ると、両手を大きな木製の丸テーブルにつき、賢人をまじまじと見つめた。そして、深く息を吐き出すと、感嘆と興奮の混じった笑みを浮かべた。

「…噂以上のバケモノね、椎名賢人。あなたのその『超思考』、見せてもらったわ」

「ひえっ…バ、バケモノだなんて…!」

横で比嘉が恐縮して縮み上がると、藤堂はフッと口元を緩めて比嘉の頭をポンと叩いた。

「あなたもいい筋してるわよ、新人ちゃん。…ふん、鑑識の連中が束になっても敵わないわね」

エラが静かに温かい紅茶のカップを並べ直し、東洋的な深い眼差しで言った。

「観測されているデータが『正しい』とは限らないわ。…でも、現場にはさらに決定的な『物理的痕跡』が残っているはずよ」

「ああ、その通りだ」

賢人が静かに立ち上がり、スーツのボタンを寸分の狂いもなく留めた。

「事務所でのロジックの組み立て(デバッグ)は終わりました。藤堂さん、現場へ案内してください。このロジックを証明しに行きましょう」

「気に入ったわ。…行くわよ、チームslabo!」

「ええっ⁉わ、私まで現場にいくんですか~~⁉」

比嘉の悲鳴にも似た歓声が事務所に響き渡る。のあが「比嘉ちゃんがんばってー!クッキー持ってく⁉」と笑顔で送り出し、チームslaboの記念すべき最初の現場出動が、夜の街へと走り出したのだった。

『天才サラリーマン椎名賢人の事件簿‐その科学デバッグします‐第1部』

第2話:密室のバグと、バケモノの『超思考』【完】

次回第3話:[『0.1秒』の真実と、始まりのチーム]はこちら➡

作品目次:[『天才サラリーマン椎名賢人の事件簿‐その科学デバッグします‐』全話一覧はこちら➡]

【量子力学×脳科学】私たちの「意識」は量子コンピューター?脳と生命のミステリーに迫る

「自分には意識がある」「嬉しい、悲しいと感じる」—当たり前のように感じているこの「意識(ココロ)」は、一体どこから生まれてくるのでしょうか?

これまでの脳科学では、「脳は神経細胞(ニューロン)が電気信号をやり取りする巨大なパソコンのようなもの」と考えられてきました。

しかし、「いや、普通のパソコン程度の仕組みじゃ『意識』なんで説明できない!」と、驚くべき説を唱えた偉大な科学者がいます。それが、ノーベル物理学賞を受賞したロジャー・ペンローズ博士と、麻酔科医のステュアート・ハメロフ博士です。

彼らが提唱したのが「Orch-OR(オーケストレイテッド客観的収縮)理論」。簡単に言うと、「人間の脳は『量子コンピューター』として動いており、そこに意識が宿っている」という説です。

今回は、このワクワクするような仮説と、それを巡る科学者たちの熱いバトル、そして最新科学「量子生物学」の面白さについてわかりやすく解説します!

1.脳の中に量子コンピューターがある?「Orch-OR理論」とは

Orch-OR(オーケストレイテッド・オーアール)理論の主張はシンプルです。

1. 脳の細胞(ニューロン)の中にある「微小管」というチューブ状の骨格が舞台。

2. この微小管の中で、物理学の「量子力学」でしか起きない不思議な現象(ミクロな重ね合わせ状態)が発生している。

3. その量子状態が限界を迎えて「フッ」と崩れる(縮小する)瞬間に、私たちの「意識体験(クオリア)」が生まれている

量子力学の世界では、「同時に複数の場所に存在する(重ね合わせ)」というSFのような現象が起きます。ペンローズ博士は、脳がこの「量子の力」を使って、通常の計算を超えた超並列処理を行っていると考えたのです。

さらにハメロフ博士は、「麻酔薬を打つと意識が消えるのは、麻酔薬がこの微小管の量子的な動きをストップさせてしまうからだ」とも主張しました。

2. 「常識外れだ!」天才物理学者からの厳しい反論

この魅力的な理論ですが、発表された直後は主流派の科学者たちから激しい批判を浴びます。

特に有名だったのが、物理学者マックス・テグマークによる反論です。

「脳の中は温かくて、水浸しで、ノイズだらけだ。そんな場所でデリケートな量子状態なんて維持できるわけがない!」

量子コンピューターを作ろうとしたことがある人なら分かりますが、量子状態を維持するには「絶対零度(マイナス273℃)に近い超低温」や「完璧な真空」が必要です。ちょっとした熱や分子の衝突(ノイズ)で、量子状態は一瞬で壊れてしまいます。(これを「デコヒーレンス」と呼びます)。

テグマークの計算によると、脳内で量子状態が崩れるまでの時間はわずか「1000兆の1秒以下」。人間の意識や神経の伝達は「1000分の1秒(ミリ秒)」の単位で動いているため、「10億倍以上も速く量子状態が壊れてしまう脳で、量子計算なんてできるはずがない!」と叩かれたのです。

3. 「生物はノイズを逆利用している!」反論と量子生物学の誕生

しかし、ハメロフ博士らも黙ってはいませんでした。

「テグマークの計算は、微小管の実際の構造を無視している!微小管の内側は水を弾く構造になっていて、外部のノイズから量子状態を守る『シールド』があるんだ!」と反論したのです。

さらに近年、科学の世界では「量子生物学(Quantum Biology)」という新しい分野が急成長し、「生体内でも量子効果は使われている」という証拠が次々と見つかり始めました。

4. 生物が量子力学を使っている実例

現在、実際に生物が体の中で、量子効果を使っていることが分かっています。つまり、「温かく湿った生物の体の中でも、生命はノイズを上手に回避(あるいは利用)して量子力学を使っている」ことが事実として証明されてきたのです。その実例を3つ紹介します。

4-1. 植物の光合成

植物は光のエネルギーをほぼ100%の効率で変換します。これは、光のエネルギー(量子)が「同時に複数のルートを同時に探して最短距離を通る」という量子の干渉を使っていることが判明しました。

4-2. 渡り鳥のナビゲーション

コマドリなどの渡り鳥は、目の中にある『クリプトクロム』というタンパク質で、地球の目に見えない磁場を察知しています。ここには「量子もつれ(エンタングルメント)」という現象が関わっています。

4-3. 酵素の働き

私たちの体内で働く酵素は、エネルギーの壁をすり抜ける「量子トンネル効果」を使って、化学反応を驚異のスピードで進めています。

まとめ:私たちの意識はどこから来るのか?

「脳の微小管で本当に量子計算が起きているか」というOrch-OR理論の根幹については、実験で証明するのが非常に難しく、今も科学界では「夢のある面白い仮説(異端の説)」という立ち位置です。

しかし、渡り鳥や植物のように「生命が量子力学を巧みに使いこなしている」ことが分かってきた現在、脳が量子力学を利用している可能性も「絶対にゼロとは言い切れない」時代になってきました。

もし、将来、脳の中で量子効果が動いていると証明されたら…私たちの頭の中には、宇宙の法則と直結した最新鋭の「量子コンピューター」が、生まれた時から備わっているということになります。

あなたの今感じているこの「意識」も、ミクロな量子たちが織りなす奇跡のハーモニー(オーケストラ)なのかもしれません。

【関連記事】量子生物学について詳しく知りたい方はこちらをどうぞ【量子力学×生命科学!「量子生物学」の刺激的な世界へようこそ】

第1話:日常の崩壊とモデル刑事の来訪

「賢人兄ちゃん!早くしないと、また朝ごはんさめちゃうよ」

朝7時。都内の日当たりの良いマンションのリビングに、エプロン姿の少女の元気な声が響き渡っていた。椎名賢人(28)(しいなけんと)のいとこで、この春から東京の大学に通うために上京してきた椎名のあ(18)だ。

「おはよう、のあ。心配しなくても、あと7分で家を出ればジャストで最寄りのバスにのれるさ」

ビシッと仕立ての良いスーツを着こなした賢人が部屋から姿を現わし、鏡を見ずに寸分の狂いもない動作でネクタイを締め上げた。

「もう!賢人兄ちゃんは相変わらず時計みたいにきっちりしすぎ!」

のあが呆れつつも嬉しそうにみそ汁をよそう。上京してきたばかりの彼女との同居生活は、単調になりがちな賢人の日常に、心地よい温もりを与えていた。————

夕方、17時45分。大手メーカーのマーケティング部オフィス。定時退勤まであと15分という刻限、賢人のデスクの横で、半泣きになりながら書類とPCを抱えて立ち尽くす人物がいた。

今年入社したばかりの新入社員—比嘉瑠菜(ひがるな)だ。

「うぅ……っ、賢人先輩ぁ…!た、大変なんです…っ!」

「どうしたんだい、比嘉さん。そんなに焦って」

賢人が手を止め見上げると、比嘉のボロボロと涙をこぼしそうな目で見つめ返してきた。

「今週の市場データの集計なんですけど…何回検算しても、最終的な数値の辻褄がどうしても合わなくてっ…もうすぐ定時なのに、私のせいで課全体の提出が遅れちゃいます…っ!足を引っ張っちゃって、本当にごめんなさい…っ」

パニックを起こして泣きつく比嘉に、賢人は取り乱すことなく静かに微笑んだ。

「どれ、見せてごらん」

賢人は比嘉のPC画面を一瞥すると、流れるような手つきでキーボードを叩き始めた。打鍵音が心地よいリズムを刻む。

「…なるほど。3行目のマクロ関数に、参照セルの1列分のずれがある。データそのものの拾い出し、君が完璧にやってくれていたよ。ほら。これで整合性が取れた。

デバッグ完了だ」

「ふぇ…⁉一瞬で直っちゃった⁉…ほんとだ、数字がピッタリ合ってる…っ!」

さっきまでのパニックが嘘のように一瞬で解決し、比嘉はパッと目を輝かせた。

「すごい…!賢人先輩って、本当に魔法使いみたいです…!」

「魔法じゃないよ、ただの論理(ロジック)さ」

賢人はPCを返すと、眼鏡のブリッジをスッと押し上げた。

「比嘉さん。君が集めてくれたこのデータ、集計の着眼点が実に素晴らしい。実は今、僕が個人的に追っている『ある科学的データの検証』があってね。…もし時間があるなら、僕の社外の『秘密基地』に来てみないか?君のその優秀な視点を貸して欲しいんだ」

「えっ…⁉賢人先輩の秘密基地…⁉わたしなんかで良ければ、喜んでついていきますっ‼」

こうして、賢人は初々しい比嘉をスカウトし、雑居ビルにある『slabo(エスラボ)』の事務所へと連れていくのだった。

「ここ…ですか?」

賢人に促され、雑居ビルの急な階段を登り切った比嘉は、重厚な木製ドアの前でゴクリと生唾を飲み込んだ。賢人が静かにドアノブをまわして中へ入ると、比嘉は緊張で肩をすくめながらその後に続く。だが、一歩足を踏み入れた瞬間、比嘉は思わずパッと目を輝かせた。

「わぁぁ…!すごい…!まるで隠れ家カフェみたい…!」

使い込まれた温かみのある木製フローリングに、ヴィンテージの書棚。部屋の中央には、ドカンと存在感を放つ大きな木製丸テーブル。窓からやわらかな光が差し込み、ほのかに上質な茶葉の香りが漂っている。

オフィスというよりは、誰もが長居したくなるような洗練されたリラックス空間だった。

その時、奥のカフェスペースから、黒髪をすっと揺らした一人の女性が洗練された手つきでティーポットを手に歩み出てきた。

東洋的な静謐さと、吸い込まれそうな知性を纏った美しい女性—エラ・ヴァンスだ。

「賢人、お帰りなさい。…あら、その子は?」

エラが優しく微笑みながら、温かい紅茶のカップを丸テーブルへ置く。

賢人は静かに眼鏡のブリッジをスッと押し上げると、比嘉の背中にそっと手を添えて紹介した。

「ことらは、僕の会社の後輩で比嘉瑠菜さん。…彼女のデータの分析センスと才能を見込んで、今回の件で協力を頼んだんだ」

「えっ⁉は、はいっ!新入社員の比嘉瑠菜ですっ!よろしくお願いしますっ!」

「才能」と言われて顔を真っ赤にした比嘉は、直立不動で深々と頭を下げた。

賢人は続て、エラの方を指し示して比嘉に語りかける。

「比嘉さん、彼女はエラ・ヴァンス、僕たちのブレインであり、『量子生物学』の専門家だ。この事務所…Webメディア『slabo(エスラボ)』の精神的支柱でもある」

「りょ、量子生物学…⁉なんか凄そうな響き…!」

比嘉が目を丸くしていると、エラはふふっと柔らかく目を細めた。

「よろしくね、比嘉さん。賢人が人をここに連れてくるなんて珍しいのよ。…さあ、冷めないうちに温かい紅茶をどうぞ」

「あ、ありがとうございますっ…!」

そこへ、奥の給湯スペースから焼き立てのクッキー皿をもった少女が元気に飛び出してきた。

「賢人兄ちゃんおかえり~!えっ女の子⁉やったー!私、賢人お兄ちゃんのいとこの『のあ』だよ!のあって呼んでね!クッキー食べる?」

「のあちゃん⁉わぁ、いただきますっ!」

一瞬で打ち解けるのあと比嘉。

緊張感がすっとほぐれた比嘉の目の前で、エラが注いだアッサムティーの湯気がふわりと立ち上がり、大きな丸テーブルを囲む「チームslabo」の物語が、いま静かに動き始めたのだった。

カツンー、カツンー。

その時、重厚で規則正しいヒール音が、急な階段を一段ずつ踏みしめるように近づいてくる。ドアが静かに開き、立ち現れたのは身長172cmの抜群のスタイルを誇る美女。黒の洗練されたパンツスーツにダークグレーのロングコートを纏い、初対面の比嘉たちを一瞥すると、不敵で魅惑的な笑みを浮かばせた。

「…賑やかね。ここが噂の『slabo』かしら」

「どちら様でしょうか?」

賢人が静かに立ち上がると、女性は胸ポケットから、すっと警察手帳を取り出し、提示してみせた。金の紋章が部屋の証明を浴び鋭く光りを放つ。

「警視庁捜査一課、藤堂玲香(とうどうれいか)よ」

帝都大学卒のエリートキャリアー本来なら現場に出ず本部で指揮を執る立場でありながら、彼女は上の制止を突っぱねて現場を走り回っていた。

『現場にしか真実(ホシ)はない。上の書類に騙されるな、玲香』叩き上げの老刑事・神崎からの徹底的に叩き込まれたその『現場主義』の教えこそが、彼女の強い信条(ハート)を作り上げていた。

「—椎名賢人、あなたに緊急で協力を求めに来たわ」

警察手帳の輝きと藤堂が放つ圧倒的な威厳に押され、比嘉は抱えていたノートPCをぎゅっと抱きしめながら「ひぇっ」と声を漏らした。

藤堂は手帳をポケットへ収めると、大きな丸テーブルの上へ一枚の事件現場写真と暗号化されたデータ端末を滑らせた。

「現場は完全な密室。…鑑識の連中はお手上げよ。あなたのその絶対的なロジック、見せてもらえるかしら?」

エラが静かに新しいカップへ温かいアッサムティーを注ぎ、藤堂の前へと差し出す。

「ようこそ、藤堂警部。…どうやら、面白いデバッグの始まりのようね」

賢人は眼鏡のブリッジをスッと押し上げ、丸テーブルの資料に視線を落とした。

「いいでしょう、藤堂さん。—その科学、デバッグします。」

『天才サラリーマン椎名賢人の事件簿‐その科学デバッグします‐』第1部                    第1話:日常の崩壊とモデル刑事の来訪【完】

次回第2話:[『密室のバグと、バケモノの超思考』はこちら➡

作品目次:[『天才サラリーマン椎名賢人の事件簿‐その科学デバッグします‐』全話一覧はこちら➡]