第3話:虚構の過去と、デバッグの攻防

「くっ……視界が、歪む…っ⁉」

比嘉が頭を押さえて膝をつきかけた。周囲のモニターに映るノイズが、まるで脳の微小管に直接干渉してくるかのように、思考を激しく揺さぶってくる。

「落ち着いて、比嘉ちゃん。深呼吸をして」

エラが静かに比嘉の肩に手を置いた。洗練されたその立ち姿と落ち着いた声が、混濁しそうになる比嘉の意識をすっと繋ぎとめる。

「これは脳内の量子共振を利用した『知覚誘導ノイズ』よ。…でも、完全に意識を乗っ取るには、脳波の固有周波数をジャックする必要があるわ」

「固有周波数の…ジャック…⁉」

「ええ。賢人、このトラップの周波数パターン…!」

「分かっています、エラさん」

賢人はまったく動じない足取りで、不敵に眼鏡のブリッジをスッと押し上げた。赤く明滅するモニターの光を浴びながら、視線を冷徹な蒼井へと注ぐ。

「比嘉さん。君のPCはまだ生きている。スパコンとの通信が切れたなら、ローカルのキャッシュメモリを使って『逆相波形』を生成してくれ」

「逆相波形……ノイズキャンセリング、ですか⁉」

「そうだ。僕がこれから口頭で伝えるアルゴリズムを、そのまま爆速で入力してくれ」

賢人の唇から、怒涛のような数式とコードの羅列が滑り出した。

「PhaseShift(0.003)、FourierTransform展開…パラメータは脳波のα波帯域から12.8ヘルツで逆位相固定だ!」

「はいっ!入力…完了ですっ‼」

タァン—!

比嘉が解き放ったエンターキーの音が実験室の高く響き渡った瞬間、キーボードから放たれた対抗波形が、部屋を満たしていた有害な磁場干渉を完全に打ち消した!

赤く明滅していたモニター群が、一瞬で本来の青い正常画面へと書き換わっていく。

「な…なに…⁉」

蒼井の冷徹な顔に、初めて明らかな狼狽が走った。

「馬鹿な…!神崎の脳波データから割り出したこの『クオリア・デバッグ』のアルゴリズムを、初見で破るだと…⁉」

賢人は静かに歩み寄り、立ち尽くす蒼井の目の前で足を止めた。

「蒼井副所長。君のロジックは非常に美しい。0.003秒の量子遅延を利用して脳の観測プロセスをループさせ、偽りの記憶を正解だと誤認識させる…まさに芸術的なトラップだ」

「…ならば、なぜ解けた!」

「簡単なことさ。君の計算には、決定的な『バグ』が一つだけ存在していた」

賢人はゆっくりと自分たち——チームslaboのメンバーを指し示した。

「君は神崎博士という『単一の観測者』の脳しか計算に入れていなかった。だが、ここには異なる視点を持つ複数の観測者がいる。エラさんの量子生物学の知見、比嘉さんの爆速データ処理、そして僕のロジック。…複数の『観測』が重なった時、君の作った0.003秒の虚構は成立しなくなるんだよ」

「椎名…賢人…っ!」

蒼井が悔し気に噛みしめた瞬間、後ろからカツン、カツンと強いヒール音が響いた。

「そこまでよ、蒼井副所長」

藤堂が警察手帳を掲げ、圧倒的な威厳で前に踏み出してきた。ダークグレーのコートを翻し、冷ややかな視線を刺す。

「神崎博士に対する電子計算機使用詐欺、及び障害致死の容疑で、あなたを本部に同行してもらうわ」

「フ…フハハハハ…!」

追い詰められたはずの蒼井が、突如として低い笑い声をあげた。

「さすがだな、警視庁のモデル刑事と…slaboのデバッガーたち。…だが、これで終わりだと思わないことだ」

蒼井は胸ポケットのデバイスを床に叩きつけると、煙幕のような冷却ガスが実験室に噴出した!

「しまっ……!逃げる気か⁉」藤堂が叫ぶ。

ガスが晴れた時には、蒼井の姿は地下実験室から消え去っていた。

「逃げられた…ですか⁉」比嘉が息を呑む。

賢人は冷静に、蒼井の去った後のメインサーバーのモニターを見つめていた。

「いいえ。彼は逃げたのではない…『次のフェース』へ移行しただけです。…藤堂さん、彼の真の狙いは神崎博士一人ではありませんよ」

賢人の瞳に、鋭い不敵な光が宿っていた—。

第3話:虚構と過去と、デバッグの攻防 【完】

次回[第4話:暴かれた過去と、蒼井蓮の真実はこちら➡]

作品目次:[『天才サラリーマン椎名賢人の事件簿‐その科学デバッグします‐第2部』全話一覧はこちら➡]

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