「現場は、世田谷区にある先端医療研究所の地下実験室よ」
藤堂の運転する漆黒の大型SUVが、夜の首都高速を滑るように駆け抜けていく。後部座席では、比嘉が膝の上に載せたノートPCの画面に吸い込まれるように爆速で指を走らせていた。
「賢人先輩、被害者のデータ出ました!被害者は同研究所の首席研究員・神崎崇(かんざきたかし)(42)。専門は微小管(マイクロチューブル)における量子コヒーレンスの研究です…!」
「微小管…エラさんが言っていたOrch-OR理論のド真ん中ですね!」
賢人が隣で静かに頷く。エラは窓の外の夜景に目をやりながら、東洋的な深い眼差しで呟いた。
「神崎博士は、脳内の量子状態を外部から観測・記録する『量子脳マッピング』の第一人者だったわ。…もし彼の研究が完成していたとしたら、人間の記憶や体験の質感(クオリア)そのものをデータとして外部に保存することが可能になる」
「記憶おクオリアの保存…⁉」比嘉が目を見開く。
「ええ。でも、現場の状況はそんなSF染みた話じゃないわ」
運転席の藤堂がミラー越しに鋭い視線を送る。
「神崎博士は、密室状態の実験室で観測用のレザーチェアに深く体を傾けたまま息を引き取っていたの。死因は心不全。だが…彼のデスクに残されていた手記とPCのログには、まったく別の『ありえない過去』が記録されていたわ」
「ありえない過去、ですか?」
「『自分は10年前にこの研究所を退職し、別の大学で教授を務めていた』…そんな現実とは180度異なる詳細な日記と、それを裏付ける偽造不可能なタイムスタンプ付きの電子データが残されていたの、本人の脳の記憶も、完全にその『偽りの過去』に上書きされた状態で息絶えていたわ」
「物理的な脳に一切傷を付けず、記憶と観察記録だけを書き換えた…」賢人が眼鏡のブリッジを押し上げる。「面白い。まさに『現実のバグ』だ」
車は10分後、重々しい警戒状態がしかれた研究所の地下駐車場へと滑り込んだ。
エレベーターで地下3階へ降りると、黄色の立ち入り禁止テープが張り巡らされた実験室の前で、鑑識員課員たちが忙しく立ち働いていた。
「藤堂警部!本部からこの現場、すでに検証終了と…」
「私が責任を持つわ」
藤堂は立ち止まることなく、172cmの長身から圧倒的な威厳を放ちながら鑑識の前に立ちはだかった。ダークグレーのロングコートをひるがえし、一切の反論を許さない鋭い眼光で鑑識課長を射抜く。
「15分だけ中を使わせてもらいましょう。…文句があるなら、本部長に私から直接電話させようか?」
その圧倒的なオーラと覚悟に圧され、鑑識課員たちは生唾を飲み込んで黙って道を譲った。
「さすが藤堂さん…やっぱりかっこいいです…!」比嘉が感動で瞳を輝かせる。
「比嘉さん、感心している暇はないよ。15分でこの部屋の『観測エラー』を暴く」
賢人を筆頭に、チームslaboが密室の実験室へと足を踏み入れた。
実験室の中央には、巨大な磁気遮断カプセルと、神崎博士が倒れていたとされるレザーチェア。周囲には無数の精密測定器とモニターが並んでいる。
「エラさん、室内の量子環境のチェックを。比嘉さんはサーバーのアクセスログと、博士が遺した『偽りの日記』のタイムスタンプの相関関係を爆速で洗ってくれ」
「了解ですっ!スパコン経由でタイムスタンプの暗号キー、ハッキング解析入ります!」
比嘉の指が、キーボードの上で残像を描くほどの速度で動き始める。
エラは、静かな足取りで部屋の隅へと歩み寄り、壁に設置された観測用センサーに繊細な指先を触れさせた。黒髪がすっと揺れる。
「…賢人。この部屋、おもしろい『歪み』があるわ」
「歪み…ですか、エラさん?」
「ええ。室内の環境データログ…温度、湿度、そして微小磁場の変動周期が、現実の時間軸とわずかに0.003秒だけ『ズレて』ループしている。まるで、この部屋全体が巨大な『量子もつれの遅延回路』になっているみたい」
賢人の瞳が、不敵な光を宿した。
「なるほど…!過去が書き換わったのではない。神崎博士の脳とPCは、『0.003秒のズレを無限に演算させられることで、存在しない過去を正解だと誤認識させられた』んだ!」
「えっ…⁉ど、どういうことですか賢人先輩⁉」
ノートPCを叩いていた比嘉が叫ぶように振り向く。
「比嘉さん、君が初陣で解いた『参照ループ』と同じ原理だよ。犯人はこの部屋の観測装置に『仕掛け』を施し、神崎博士の脳波データをフィードバックループにハメ込んだんだ。…だが、なぜそんな手間をかけて博士の記憶を書き換える必要があったのか?」
その時——
「――そこまでにしてもらおうか、チームslabo」
実験室の影から、静かな、しかし冷徹な声が響いた。
暗がりから歩み出てきたのは、白衣を纏った精悍な男。神崎博士の共同研究者であり、研究所の副所長——蒼井蓮(あおいれん)(35)だった。
「部外者が警察権力を盾に現場を荒らすとはね。……椎名賢人くん、君のその優秀な脳も、ここでは無力だ」
蒼井がポケットから取り出した小さなデバイスのスイッチを押した瞬間、実験室の全モニターが真っ赤なエラー表示へと切り替わった!
《WARNING:QUANTUM FEEDBACK LOOP INITIATED》
「しまっ……!スパコンからの接続が強制遮断された⁉賢人先輩、私たちのPCと脳波観測器が同期させられて行きますっ!」
比嘉の悲鳴が地下実験室に響き渡る。
神崎博士を死に追いやった「記憶消去(クオリア・デバッグ)の罠」が、いまチームslabo全体に襲いかかろうとしていた――!
第2話:記憶の消失(デバッグ) 『完』
次回[第3話:虚構と過去と、デバッグの攻防はこちら➡]
