第1章:偽装された時間
第1話:相対的な遅刻と不可解な残業
【プロローグ】
曇天の平日朝8時20分。満員電車の中で、椎名研人はスマホの株価チャートを無表情で眺めていた。吊革につかまる彼の右手には、年季の入った黒革のビジネスバッグ。中には電卓と、最新の量子力学の原著論文がひっそりと入っている。
「今日は8時45分までにデスクに着かないと、部長の機嫌がな…」
周囲のサラリーマンと同じように、彼は刻一刻と迫る始業時間に神経を尖らせている。「遅刻という事象は、時間と空間の相対的な位置関係によって定義される。」—
そんな思考が頭をよぎるが、すぐに「いや、部長の視界に入らないことが絶対だ」と、凡庸な結論に落ち着けた。
【事件の発生】
椎名の務める「東亜電機」本社ビルから数駅離れた、「ITベンチャー企業が入る高層オフィスビルの地下駐車場で、事件は起きた。
犠牲者:若手起業家、「西崎誠」(29)。彼の遺体が、高級車のトランクから発見された。死因は、劇薬による中毒死。
現場の状況:
1.トランクは厳重に施錠されており、鍵は西崎のスーツのポケットから見つかった。
2.地下駐車場には、防犯カメラが複数設置されているが、遺体がトランクに入れられたと推定される時間帯(前日夜10時~11時)の映像が、なぜかすべてデータ破損で使い物にならない。
3.死体発見時、西崎は真新しい冬物のコートを着ていたが、彼の車内のエアコンは「28度の暖房」に設定され、全開になっていた。
【椎名の登場】
椎名は、東亜電機の経理として、西崎の会社との提携プロジェクトの資料確認のため事件翌日の昼過ぎにこのビルを訪れる。偶然、規制線が張られた地下駐車場の隅を通りかかり、警察の会話を小耳に挟む。
「…不可解だ。真夜中の駐車場で暖房全開。しかもこの時期に冬コート。まるで、時間を胡麻化そうとしたみたいだ」と、捜査官が唸る。
椎名はその一言に反応する。
(時間を誤魔化す?—いや、彼が誤魔化そうとしたのは、温度と時間の関係だ。)
彼は一瞬、瞳の奥に鋭い光を宿す。周囲には無関心を装いながら、ポケットに忍ばせた温度計(彼の「科学の世界」と「普通のサラリーマンの世界」を繋ぐささやかなツール)の数値を見る。彼の天才的な頭脳の中では、既にこの不可解な「暖房とコート」の状況と、「データ破損」が、ニュートンの冷却の法則を応用した、ある種のアリバイ工作に使われた可能性を導き出していた。
「この事件は、犯人が科学の知識を悪用した、『時間トリック』だ」
椎名の静かな独り言は、事件の闇を切り裂く第一声となる。そしてその声を、偶然近くにいたネット記者の御子柴梓が聞いてしまう…。
【手がかりの提示と理論構築】
駐車場で御子柴梓に声をかけられた椎名研人は、一瞬顔を曇らせたものの、すぐに無関心を装い、「人違いでは?」と冷たく突き放した。しかし、諦めない御子柴は、彼の後ろを追ってビルのエントランスまでやってきた。
「ちょっと待って!今の話、どういうことですか?『時間トリック』って。まさか、あの事件について何か知ってるんですか?」
御子柴の焦りに満ちた声にも、椎名は感情を表に出さない。代わりに、手に持った温度計を眺めながら、独り言のように話し始めた。
「遺体の第一発見推定時刻は、昨夜の23時。しかし、警察が確認した遺体の深部温度(直腸温など)は、発見時、まだ周囲の気温よりわずかに高かったはずです」
「それがどうしたっていうんですか?」
「暖房です。彼は真新しい冬のコートを着て、車内の暖房を28度設定で全開にしていた。まるで、自分がまだ生きている時間を偽装しようとしたかのように」
椎名が一歩踏み出し、御子柴に視線を合わせる。
「犯人は、西崎氏が死亡した正確な時刻を隠蔽する必要があった。そのために、冷却の法則を悪用したんです。」
【科学解説:ニュートンの冷却の法則】
椎名は、壁に貼られたビルのフロア図を指でなぞりながら、簡潔に説明した。
「ニュートンの冷却の法則は、熱い物体が周囲の冷たい環境に置かれたとき、その温度低下の速さは物体と周囲の温度差に比例するという法則です。遺体も例外ではありません。死後、遺体は外界との温度差に従って冷えていきます。この冷却の速度を計算すれば、死亡時刻を推定できる」
「つまり、その法則を逆手に取って?」
「ええ。犯人は西崎氏の遺体が発見されるまでの間、車内を高温に保ち、遺体の冷却速度を意図的に遅らせた。これは、警察による死亡推定時刻の計算を狂わせるための工作です。発見時刻の時点で、遺体は実際よりも遅い時間に死亡したように見せかけることができる」
椎名はこのトリックを「相対的な遅刻」と命名した。
「しかし、そのためには犠牲者をコートでくるみ、高温の環境に置くという、不自然な行為が必要になった。これが、犯人の『科学的な自己顕示欲』が生んだミスです」
【新たな疑問とデータ破損の謎】
『でも、防犯カメラのデータが消えているのは?』御子柴が核心に迫る。
椎名はスマホを取り出し、画面を表示させた西崎氏の車の写真を見せた。写真には、高級車の後部座席に、市販の無線ルータのようなものが写り込んでいる。
「犯人が遺体をトランクに押し込んだ時間帯、周囲の防犯カメラのデータだけが消失している。これは偶然ではない」
椎名は、再び天才の片鱗を見せる。
「現代の監視カメラシステムは、映像をデジタルデータとして記録し、無線や有線でサーバーに転送しています。犯人は、強力な電磁波を用いて、特定のカメラのデータ伝送経路を一時的に妨害した。特に無線通信は、特定の周波数の強いノイズに極めて弱い」
【科学解説:電磁波とデータ破壊】
「彼は、市販の無線機器を改造した高出力のジャマー(電波妨害装置)を車内に仕掛けたはずです。このジャマーは、カメラの映像送信がサーバーに届くための周波数帯域をピンポイントで攻撃し、送信中のデータを破損させた」
「そんなことが、普通の機械で可能なの?」
「可能です。電磁波の物理特性を正確に理解し、市販部品を組み合わせれば、安価に、そして一時的に特定のデータのみを破壊できます。このトリックを私は『不可解な残業』と呼びます。
犯人は、自分自身のアリバイを確立するために、データという『時間情報』を物理的に消し去るという『残業』をしたわけです」
御子柴は愕然とした。これほどの知識と技術を、あの目立たないサラリーマンが、一瞬で導き出したことに。
椎名は静かに歩き出した。
『捜査の方向は、『ニュートンの冷却の法則』と『電磁波の応用』に精通している人物。そして、西崎氏の車に容易にアクセスでき、彼をコートでくるむ時間的余裕があった人物に絞られます」
「待ってください!あなたの名前は?」
椎名は振り返らず、一言。
「ただの経理部の椎名です。時間は大切に」
彼の頭の中では、次のステップとして、遺体の具体的な冷却曲線と、電磁波ジャマーに使われたであろう部品の特定へと、計算が進められていた。
第2話:『電磁波の指紋と共振周波数』
【御子柴の追跡】
東亜電機のビルを出た椎名研人は、すぐに近くのカフェに入り、持参したラップトップを開いた。彼が仕事に戻ると思っていた御子柴梓は、必死に後を追った。
「椎名さん!待って。あなたの推理を記事にしたい。協力させてくだい!」
御子柴は食い下がったが、椎名はPCの画面から目を離さない。そこには、市販の無線機器の周波数帯域表と、電磁波の減衰率に関する数式が表示されていた。
「協力、ですか。私には経理の仕事がある。それに、記者のあなたには、私の理論を理解する科学的素養が足りない」
「な、なんですって⁉」
御子柴が反論しようとした瞬間、椎名は画面を指さした。
「『不可解な残業』、つまり防犯カメラのデータ破損に使われた電磁波ジャマーですが、あれは特定帯域の電波を増幅させる共振回路が必要です。高性能な既製品でもなく、改造品である以上、『必ず電波の指紋』が残る」
【科学解説:共振と電磁波の指紋】
「共振とは、物体が特定の振動数(周波数)の外部エネルギーを吸収し、その振動を極端に増幅させる現象です。ブランコを押すタイミングと、ブランコが揺れるタイミングが一致すると、小さな力でも大きく揺れるのと同じです。犯人は、カメラのデータ通信に使われる周波数帯に共振する回路を作り、そこに強力な電力を流し込んだ。これにより、短時間でその周波数帯のノイズが最大化し、データが破損した」
椎名は続けた。
「しかし、完璧なジャマーは作れません。改造品には、意図しないわずかな周波数が漏れ出します。これは、製造技術や部品の質の悪さ、配線の不備などから生じるノイズの癖。言わば、そのジャマーが持つ“電磁波の指紋”です。」
「その指紋を、どうやってみつけるんですか?」
「被害者・西崎氏の会社のビルはITベンチャー。周囲には、無線LANやBluetooth
など、無数の電波が飛び交っています。しかし、事件後の電波記録を詳細に分析すれば、通常ではあり得ない“スパイク”つまり異常な出力ノイズの記録が見つかるはずです。そのノイズの波形と周波数スペクトルが犯人特定の手がかりになる」
【経理部の天才の仕事】
椎名はPCを閉じ、立ち上がった。
「私の推理が正しいと仮定するなら、犯人は西崎氏とデータ通信技術、または電波物理学の分野で接点があった人物。そして、あの車にジャマーを仕掛け、暖房をセットする動機があった」
御子柴はメモを取る手が止まらない。
「じゃあ、あなたはこれからどうするんですか?」
「私は経理です。費用対効果を計算する。犯人がジャマーを作るにかかった部品代、そして『不可解な残業』を実行するために費やした時間。これらはすべて、彼のコスト意識、つまり人間性に繋がります」
椎名が向かったのは、警察署ではなく、秋葉原の電気街だった。彼は御子柴を連れて、電子部品店に入ると、迷いなく棚を指さした。
「この高周波増幅器(アンプ)、そしてこの指向性アンテナ。これらを組み合わせれば、あの程度のジャマーは作れる。総額はせいぜい5万程度。そして、これらの部品を過去に大量購入した記録を、ネットの販売履歴や会社の経費記録から追跡すればいい」
天才は、その超絶的な知識を、地味な「経理」という手法に落とし込み、犯人の「金と時間の使い道」から、彼の正体に迫ろうとしていた。
【次なる手がかり】
その夜遅く、御子柴が持ってきた西崎氏の会社の経費明細を見た椎名は、ある一点に目を留めた。それは、西崎氏のライバル企業である「シンク・ラボ」の研究員・加賀美隼人が、事件の3ケ月前に「試験用電波測定器」として、数万円の高周波部品を大量に経費申請していた記録だった。
「見つけた。これが、犯人の残した『電磁波の指紋の原点』だ。加賀美隼人…彼は『暖房とコート』のアリバイ工作を作った以上、西崎氏を殺害する絶対的な動機を持っていたに違いない」
椎名の顔に、初めて微かな笑みが浮かんだ。それは、難解な数式を解き明かした者が持つ、静かな歓喜の笑みだった。
第3話:『熱力学第二法則と破られた約束』
【加賀美の動機と実験】
椎名研人と御子柴梓は、加賀美隼人という人物像を洗い出すことから始めた。加賀美は、西崎誠が経営するITベンチャーと共同開発を進めていた研究者だった。二人は「次世代型超高速データ通信システム」の特許をめぐり、激しく対立していたという。
「西崎氏が、特許の単独所有権と主張し、加賀美氏の研究成果を横取りしようとしていた。これが動機でしょう」と御子柴は資料をまとめた。
椎名は加賀美の経費明細に再び目を向けた。
「動機は明白。問題は、彼のアリバイです。事件推定時刻の夜10時頃加賀美氏は自分の研究室で徹夜していたと証言している。これをどう崩すか」
「でも、彼は『暖房とコート』と『電磁波ジャマー』のトリックを使ったんですよね?そのトリックが、彼の徹夜のアリバイを完璧に崩すんじゃないですか?」御子柴は尋ねた。
「その通りです。そして、そのアリバイの崩壊を決定づけるのは、熱力学の法則です」
【科学解説:熱力学第二法則と時間の矢】
椎名は、カフェのテーブルの上のコーヒーカップを指した。
「私たちは、温かいコーヒーが冷めていくのを見ても驚きませんが、冷え切ったコーヒーが自然に熱くなるのを見たら、魔法だと思います。これは、熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)が支配しているからです」
「エントロピーとは、簡単に言えば『乱雑さの度合い』。自然界は常に、このエントロピー、つまり乱雑さが増大する方向に進みます。熱は必ず高温から低温へ移動し、時間は常に未来に向かって進む。この一方通行の流れは、『時間の矢(Arrow of Time)』とも呼ばれます。
熱力学第二法則と時間の矢についてはこちらで詳しく解説しています➡【時間はなぜ逆戻りしないの?「物理学が解き明かす時間の謎」】
「加賀美氏は、遺体を高温の車内におくことで、ニュートンの冷却の法則による死亡時刻を操作しようとそました。しかし、彼がどれだけ暖房を効かせても、遺体は死後硬直や血流停止といった不可逆な生命現象の変化を止められません。特に、人体内部は、周囲の温度操作の影響を完全には受けきれない」
熱力学第二法則と時間の矢についてはこちらで詳しく解説しています➡【時間はなぜ逆戻りしないの?「物理学が解き明かす時間の謎」】
【決定的な証拠:血液の凝固】
椎名は、警察の検視報告書を広げた。
「事件推定時刻より前に遺体が死亡していた決定的な証拠は、彼の血液の凝固状態です。西崎氏の遺体は、トランクに詰め込まれていたため、特定の体勢で発見されています。その体勢で血流が停止すると、重力に従って血が沈殿し、死斑が発生します。そして、時間が経つにつれ血液内の酵素が働き、不可逆的に凝固します」
「もし西崎氏が『暖房トリック』で偽装された時刻に死亡したのなら、血液の凝固はまだ初期段階にあるはず。しかし、報告書によれば、凝固はすでに完全な状態に達していた。これは、偽装された時刻よりも遥かに早い時間に死亡したことを示しています」
「熱(温度)は操作できても、生化学的なエントロピーの増大は操作できない。加賀美氏は、科学の法則を悪用しようとしましたが、より根本的な法則によって、自らのアリバイを破られたわけです」
御子柴は鳥肌がたった。科学の天才は、事件を解く際に、宇宙の基本的なルールまで引き合いに出すのかと。
【対決】
椎名と御子柴は、加賀美隼人がいる研究室へと向かった。研究室の片隅には、分解された高周波増幅器と、冷却の実験に使ったと思われる温度計と断熱材の切れ端が隠されていた。すべて、椎名が経費明細から予測した通りだった。
椎名は静かに加賀美に語りかけた。
「あなたは、ニュートンの冷却の法則と電磁波の物理的性質を理解していた。だから、完璧な時間とデータの偽装ができると考えた。しかし、熱力学第二法則を無視しました」
「西崎氏の血液凝固は、あなたが徹夜で仕事をしていると偽った夜10時より、最低でも2時間以上前に、彼が死亡していたことを証明している。あなたには、その時間、西崎氏を呼び出すことができ、そして、彼の命を奪い、トリックを仕掛ける時間的猶予があった」
加賀美は、静かに笑った。
「面白い。私は科学で勝負を挑んだつもりだったが、結局、最も基本的な法則に足元を掬われたわけか…」
彼は敗北を認め、すべてを自白した。研究を裏切った西崎への憎悪が、彼を天才科学者から犯罪者へと転落させたのだ。
【エピローグ】
事件は解決した。御子柴は、天才サラリーマン探偵・椎名研人の活躍を匿名記事として発表し、大きな話題をよんだ。
東亜電機の経理部に戻った椎名は、何事もなかったかのように伝票をチェックしている。
「椎名さん、次の事件は、どんな法則が使われるんでしょうね?」御子柴が尋ねた。
椎名は電卓を叩く手を止めず、答えた。
「宇宙には、まだ解明されていない謎が無数にある。そして、人間がそれを悪用しようとする限り、私の『計算』の仕事は終わりません」
彼の瞳の奥に、再び静かな、しかし確かな「科学の光」が宿っていた。
