科学小説『メフィストフェレスの計算』

第3章:過去と未来の衝突

第7話:『乱数列の数学的構造とカオス理論』

【暗号の解析の着手】

椎名は、実行犯である白石悠馬のPCから回収された、何の変哲もないテキストファイルに集中していた。そこには、数千行にわたるランダムな数字の羅列、いわゆる「乱数列」が記録されていた。

「警察はこれを、単なる研究データのノイズか、あるは意味のないデータと判断して、重要視していない」と御子柴は言った。

「彼らが正しい、これは真の乱数であれば、何の価値もない」椎名はモニターを睨みつける。「だが、メフィストフェレスが残したものは違う。これは『ある物理定数に基づいた数学的規則』で生成されている。言い換えれば、これは疑似乱数、つまり暗号だ」

【科学解説:カオス理論とローレンツアトラクター】

「一般的な暗号は、素因数分解などの計算量の多さに頼っています。しかし、これはより巧妙だ。これは、カオス理論に基づいている」

椎名はホワイトボードに、複雑な蝶のような図形を描き始めた。

             

「これは、気象学者エドワード・ローレンツが考案したローレンツ方程式です。わずかな初期値の違いが、時間経過とともに予測不可能な巨大な差異を生むという、『バタフライ効果』の理論的基礎です。彼の発見は、気象予想の限界を示しましたが、同時に、自然現象が持つ『複雑だが決定論』的な構造を明らかにした」

「メフィストフェレスは、このカオス的な法則を応用して、この乱数列を生成した。彼らは、ローレンツアトラクターのような複雑なシステムが生成する数列を使い、その初期値、あるいはシード値(種)として、特定の物理定数を用いたに違いない」

「物理定数?」

「はい。例えばプランク定数、光速、あるいは黄金比など、宇宙の根源をなす不変の数値です。これらの定数を知らなければ、数列をいくら分析しても、暗号の規則性は見破れません」

【シード値の発見】

椎名は、様々な物理定数をシード値として仮定し、乱数列のパターンと照合する作業を続けた。彼の超人的な計算速度と、過去の膨大な知識がこの時、結実した。

そして、夜が明ける直前椎名のPCの画面に、規則的なパターンが浮かび上がった。

「見つけた。シード値は、『コッホ曲線のフラクタル次元』の近似値と、橘氏が開発していた超耐久性プラスチックの『結合光子のボンド長(結合距離)』の組み合わせだ」

御子柴は愕然とした。単なる乱数列が、数学の概念と特定の化学データの二重構造で暗号化されているのだ。

「この暗号が示すものは何ですか?」

「これは、次の取引の場所と時間、そして新しい標的を示すメッセージです。乱数列を解読した結果、導き出されたのは、場所:『廃墟となった精密機器工場の地下』、そして時間:『今夜23時11分』。そして、次の標的は、『超高速量子コンピューティング』の特許を持つ、ある大学の研究チームです」

【メフィストフェレスの目的】

メフィストフェレスの真の目的が明らかになってきた。彼らは、「科学の未来」を売買しようとしている。

「奴らは、世界を根本から変える可能性がある、最先端の技術を掌握しようとしている。特許を買い叩き、あるいは殺人で奪い取り、科学の進化そのものを裏側からコントロールしようとしている」

椎名の静かな怒りが、部屋の空気を震わせた。彼は、天才科学者として、この傲慢な「法則の悪用」を許すわけにはいかなかった。

「私が行く。彼らが、私の『計算』を超えることができないと証明しなくては」

椎名は立ち上がり、ジャケットの裏に隠していた、極秘に改造した高性能電磁波測定器を取り出した。「サラリーマン」という仮面は、今、完全に剥がれ落ちていた。

第8話:『カオス理論の衝突と過去の影』

【潜入と警戒】

夜23時。椎名研人と御子柴梓は、暗号が示した廃墟となった精密機器工場の地下へと潜入した。錆びた配管が剝き出しになった広い空間に、たった一つの光源、強力な作業用ライトが煌々と照らされている。その下には、数人の人物が立っていた。

彼らの中心にいるのは、標的である量子コンピューティングの研究チームのリーダー、五十嵐教授。そして、その教授を囲むように立っているのは、白石悠馬を含む数名のスーツ姿の男たち。彼らの表情は冷たく、明らかに五十嵐教授を脅迫している状況だった。

「やはり、彼らは特許を奪うために、教授をここに誘いだしたんだ」と御子柴は声を潜めた。

「違います」椎名は、隠し持った電磁波測定器のディスプレイに目を落とした。「彼らの目的は特許そのものではない。彼らが求めているのは、量子コンピューティングの『コア技術』、つまり、まだ文書化されていない不安定な理論です」

測定器の数値が激しく上下している。

「この地下室は、強力な電波干渉をうけている。まるで、大規模なデータ転送が行われているようだ。彼らはここで、教授の頭脳にある情報をすべて吸い出そうとしている」

【メフィストフェレスの使者】

そのとき、スーツ姿の男の一人が口を開いた。彼の声には、奇妙な合成音声のような響きがあった。

「五十嵐教授。あなたの研究は素晴らしい。しかし、人類には早すぎる。我々、メフィストフェレスこそが、その知識を正しく管理し、未来へ導く存在だ。データを提供すれば、あなたとご家族の安全は保障される」

白石悠馬が、教授の顔に青ざめた表情で、小さなデータ転送装置を突きつけた。

椎名は、その合成音声の男の顔を見て、一瞬、全身の血液が凍るのを感じた。

「あの男…」

その男の顔には、椎名がかつて所属していた研究所の、ロゴマークと似た形状のタトゥーが刻まれていた。その研究所は、椎名が科学界から姿を消すきっかけとなった、「禁断の理論」を研究していた場所だった。

【科学の衝突と崩壊】

椎名は隠れ場所から飛びだし、測定器を構えた。

「その『管理』は、科学の自由に対する冒涜だ!あなたの乱数列は解読済みだ。ローレンツアトラクターの不安定性を応用した暗号化だが、シード値がコッホ曲線の次元P-237のボンド長という、極めて個人的なデータに基づいていたのがミスだ!」

合成音声の男は、椎名を見て微動だにしなかった。その目は、まるで実験動物を見るかのように冷淡だった。

「驚いた。椎名研人。やはり、君だったか。君の計算能力は、カオスの予測を上回る。だが、君はなぜ、その才能を簿記なんかに使っている?」

男は、椎名の過去を知っていた。そして、その言葉で、御子柴は椎名の正体が単なる天才ではないことを完全に悟った。

「君も知っているはずだ、真の知識は、無秩序な世界に流出するべきではない。それは。それは破滅を招く」

椎名は、測定器の出力を最大にした。

「破滅を招くのは、知識そのものではなく、それを独占しようとする傲慢さだ。私は、あなたのデータ転送を停止させる!」

椎名が操作したのは、合成音声の男が首に装着している音声変調器と、白石が持っているデータ転送装置が通信に使用している、特定の共振周波数だった。

【科学解説:周波数共振の破壊的応用】

「あなたは、量子情報の転送に、特定の共振周波数を使っている。その周波数は、極めて狭い帯域でのみ高効率なデータ転送を可能にするが、同時に、外部からの強力なノイズに極端に弱いという弱点を持つ!」

椎名が放ったのは、周波数帯域の許容量を遥かに超えるノイズの嵐。これは最初の事件で使われたジャマーの数千倍の出力を持つ、破壊的な電磁波だった。

ゴオオオッ!という耳障りなノイズが地下室を満たした、白石の持つ転送装置が火花を散らしてショートした。合成音声の男の変調器も停止し、彼の生の声が地下室に響き渡る。

「くそっ!やはり君は…『裏切り者』だ!」

データ転送は失敗に終わり、白石たちは混乱して撤退を始めた。椎名は彼らを追わず、合成音声の男の生の声に、ある違和感を覚えた。

「待て。今の声…ではない」

椎名が過去に知っていた「メフィストフェレス」の核心人物とは、別人だった。この男は、単なる『使者』。真の黒幕は、まだ影の中にいる。

【残された手掛かり】

五十嵐教授と研究チームを救出した後、椎名は合成音声の男が落としていったペンダントを拾い上げた。それは、銀色のアインシュタインの相対性理論の数式     (E=mc²)が刻まれた、何の変哲もないレプリカだった。

「相対性理論…メフィストフェレスが求めるのは、時間と空間すら支配する知識なのか?」

椎名の戦いは、まだ始まったばかりだった。彼の過去、そして科学の未来をかけた、「計算」の旅が続く。

第9話;『相対性理論のレプリカと量子もつれ』

【手がかりの分析】

地下室での衝突後、椎名研人は「使者」が落としていったアインシュタインの相対性理論の数式(E=mc²が刻まれたペンダントを詳細に分析した。

「ただのレプリカではありません。この金属には、ごく微量ですが、特定の超電導合金が使われている。そして、裏側には、非常に微細な傷がある」

椎名はデジタル顕微鏡でその傷を拡大し、すぐにそれが二進数法(バイナリコード)で刻まれたメッセージであることを見抜いた。

01010010 01100101 01100100 00100000 01000100 01110101 0111001 01110100

これを解読すると、”Red Dust”(赤い塵)という単語が浮かび上がった。

御子柴は首を傾げた。「赤い塵?新しい特許名ですか?」

「いいえ。これは、私が科学界から姿を消すきっかけとなった、過去のプロジェクトのコードネームです」椎名の声は低く沈んでいた。

【過去のトラウマ:「Red Dust」プロジェクト】

椎名が超有名大学院に在籍していた頃、彼はある非公式な極秘研究チームに所属していた。それが「Red Dust」プロジェクトだった。

「私たちは、『量子もつれ(Quantum Entanglement)』を応用し、超遠距離で瞬時に情報伝達を行う技術を研究していました。光速を超えることはできないが、情報が瞬時に相関する現象です」

【科学解説:量子もつれ】

量子もつれとは、二つの素粒子が一組となって結びつき、たとえ宇宙の果てに離れても、片方の粒子の状態(例:スピンの方向)を観察すれば、もう一方の粒子の状態が瞬時に決定する現象です。アインシュタインはこの現象を『不気味な遠隔操作』と呼びました 」

「『Red Dust』は、この原理を悪用し、人間の脳の情報を、遠隔地で瞬時にコピー・転送するための技術を開発しようとしていた。私には、その技術が人類の自由を根底から破壊すると感じられた。私はプロジェクトから離脱し、研究を破棄しようと試みた。しかし、その過程で…ある悲劇が起きました」

椎名は目を閉じ、その悲劇については深く語らなかった。だが、そのプロジェクトを推進していた中心人物こそが、真の「メフィストフェレス」であると確信した。

「奴らは、私の技術が『情報瞬時転送』という形で結実すると信じている。彼らが狙う『量子コンピューティング』は、その計算基盤となるものです。彼らは、知識を瞬時に独占し、世界を支配しようとしている」

【二つの相対性】

ペンダントに刻まれたE=mc²と、量子もつれという二つの科学原理は、「メフィストフェレス」の野望を示唆していた。

  • 相対性理論(E=mc²):宇宙における時間と空間の法則(質量とエネルギーの等価性、光速の限界)を支配する。
  • 量子もつれ:情報の瞬時性を扱い、相対性理論で規定された光速の壁を乗り越えるかのような錯覚を与える。

「『メフィストフェレス』の最終目標は相対性理論によって確立された宇宙の物理法則と、量子力学によって示唆された情報の絶対的な支配を、同時に手に入れることだ」

【次なる行動】

椎名は、自分の過去の技術が、現在進行形で悪用されようとしていることに強い責任を感じていた。

「『Red Dust』プロジェクトの機密データは、今も極秘のデータ貯蔵庫に残されているはずです。そこには、量子もつれを利用した転送システムの『欠陥(バグ)』に関する私の最終論文が保管されている。奴らは、その欠陥を知らずに、量子コンピューティングの技術を完成させようとしている」

「行きましょう。メフィストフェレスの真の目的を阻止するために、私の過去と決着をつけなくてはならない」

椎名研人は、天才科学者としての「魂」を取り戻し、科学の闇に立ち向かうことを決意した。彼の次の計算の舞台は、「Red Dust」の眠る、秘密の研究施設へと移る。

科学小説『メフィストフェレスの計算』

第2章:溶解する知識

第4話『不確定な密室と溶解の科学』

【事件の概要】

椎名研人が再び事件に巻き込まれたのは、とある大手化学メーカーの研究施設。開発中の「超高耐久プラスチック」の特許権を持つ主任研究員、橘涼子(たちばなりょうこ)が、自身の研究室で変死体となって発見された。

現場の状況

1. 研究室は、警備システムによって厳重に管理されており、「電子密室」の状態。入退室ログによると、橘が入室した後は、外部からの入室記録は一切ない。

2. 橘の死因は、青酸カリによる中毒死と見られるが、現場には毒物が飲まれた形跡も、凶器となるような物は見つかっていない。

3. 遺体の手元には、使い古された金属製の注射器が握られていたが、その針先は激しく腐食し、半分ほど溶解してしまっていた。

【椎名の推理と物理化学の壁】

警察の捜査に同行した御子柴は、椎名に連絡を入れた。

「椎名さん、これは完璧な密室です。電子ロックのログは完璧だし、警察は自殺の線も視野に入れています。でも、変なんです。橘さんはなぜか、使い古した注射器を握りしめていて、しかもその針が…溶けているんですよ?」

東亜電機の経理部デスクで、椎名は渡された現場写真のデータを凝視した。

「電子密室、そして青酸カリ…さらに『溶解する凶器』ですか。犯人は今回、『化学反応の時間差』トリックを使った」

「時間差?」

「青酸カリは即効性の毒物。彼女が自分で注射したなら、遺体はすぐに倒れているはずです。しかし、溶解する針は、反応に時間が必要なことを示している」

椎名は立ち上がり、ホワイトボード(経理部の予算会議用だが、今は彼の思考実験の場だ)に一本の数式をかきだした。

反応速度=k[A]m[B]m

【科学解説:化学反応速度論】

「これは反応速度式です。化学反応がどれくらいの速さで進むかを示す式で、物質の濃度や温度が影響します。針が『溶解』したということは、犯人は橘氏に毒を投与した後、時間差で証拠を消し去る化学反応を仕掛けた」

『針は金属製。それを溶かすには、非常に強い酸(または塩基)が必要です。しかし、即座に溶けてしまっては、橘氏の手に握らせる時間がない。ここで犯人はトリックをつかいました』

椎名は、溶解した針の写真を拡大した。

『注射器の針は、おそらくステンレス鋼。これを短期間で溶かすには、王水(濃塩酸と濃硝酸の混合物)のような劇薬が必要です。しかし、王水を直接使ったなら、橘氏の手にまで薬液がこぼれ、皮膚もただれるはずですが、その形跡はない』

「では、どうやって?」

「犯人は、『反応を遅らせる物質』を使った。具体的には、『保護層を形成する物質』です。例えば、注射器の針先に、特定の有機物の幕や、溶解性の低い酸化物の薄膜をコーティングしておく」

「毒物を注射した瞬間、針は橘氏の体内に。そして犯人は、針先を溶かすための『触媒』となる物質を外部から、あるいは注射器自体に仕込んだ」

【密室の突破口】

椎名は、「溶けて証拠が消える凶器」のアイディアに感嘆しつつ、電子密室の鍵を探した。

「密室の突破口は、『電子ロックの原理』にあります。電子ロックのログは、『人が物理的に扉を開けた事実』しか記録しません。犯人は、扉を開けずに、橘氏を殺害し、注射器を回収した可能性がある」

「そんなこと、物理的に不可能でしょう?」御子柴が戸惑う。

椎名が着目したのは、研究室の排気システムだった。

「青酸カリの毒物は、液体、あるいはガス状でも殺傷能力を発揮します。橘氏の死因は青酸カリと特定されましたが、もし犯人が、排気口や空調システムを利用して青酸ガス(シアン化水素)を極少量、室内に流し込んだとしたら?」

【科学解説:気体の拡散と微量分析】

気体の拡散は、熱運動によって時間とともに自然に広がっていく現象。排気システムを操作できる人間が、極微量の青酸ガスを『時間の矢』に乗せて、室内に送り込んだ。このガスは、すぐに排気システムで排出されるため、現場には残らない。これで密室のまま、橘氏を中毒死させることが可能です。」

「しかし、注射器は?ガスでどうやって注射器を橘さんの手に握らせるんですか?」

「これが、この事件の最大の科学的パズルです。ガスを注入し、死亡を確認した後、物理的な接触なしに、溶解途中の針を持つ注射器を遺体の手に握らせる方法。犯人は、注射器と針を溶解させる、そして『磁力』『遠隔操作』、あるいは『化学反応による機械的動作』の、いずれかの高度な科学技術を応用している」

椎名は、橘氏の遺体の手元にある注射器が、なぜ「使い古された金属製」だったのか、その理由を考え始めた。それは、磁性を帯びた素材である可能性、あるいは化学反応で溶ける素材でできた特殊なメカニズムだったかもしれない。

彼の天才的な計算は、科学の反応時間と物理の遠隔操作が交差する、新たな領域に突入した。

第5話:『粘性と溶解の科学』

 【物理的な接触の謎】

椎名は、「ガスで中毒死させ、物理的な接触なしに注射器を手に握らせる」という矛盾点に集中した。

「化学反応による証拠隠滅と、電子密室。この二つを結びつけるのは、『遠隔操作』、それも『時間をかけた遠隔操作』です」

御子柴は戸惑う。「遠隔操作?ドローンか何かですか?」

「いいえ。そんな大掛かりなものは入退室ログに残るか、音で気づかれます。もっと静かで、科学的で、低コストな方法です。注射器は、橘氏が座っていたデスクの上にあったはず。犯人は、彼女の死後、注射器を滑らせて手に届かせた」

椎名は、橘氏の研究室の床と、注射器の写真を拡大した。

「鍵は、溶解した針を覆っていた『保護層』です。あのコーティングは、毒物投与後に徐々に溶け、針をむき出しにして溶解させる ためだけにあったのではない。それは、注射器を移動させるための『潤滑剤』でもあった」

【科学解説:粘性の応用と毛細管現象】

椎名が指したのは、写真に写り込んでいた、床の僅かなシミだった。

「犯人は、あらかじめ研究室の床、あるいはデスクの床面に、粘性の高い液体で目に見えない細い『道』をつくっていた。そして、注射器の特定箇所に、ゆっくりと揮発する高粘性の特殊な化学溶剤 を仕込んでおく」

「溶剤?何のために?」

「溶剤が揮発しきると、注射器は自重で『道』の上に滑り落ちます。その『道』の素材は、注射器を橘氏の手に届かせるための潤滑剤、あるいは引力を生み出すための『粘性(Viscosity)』 を持つ液体です。」

「粘性とは、流体の流れにくさを示す性質(例、ハチミツは水より粘性が高い)。犯人は、特定の化学物質を使い、非常に低い速度で動く『液体ベルトコンベア』を作り上げた。さらに、注射器の磁性を使用し、デスクの下に設置した微弱な電磁石で、時間差でわずかに引く力を加えた可能性もあります」

しかし、注射器を手に届かすだけでは、「握らせる」ことはできません。

椎名は、溶解した針の根元近くにある、微細なくぼみに注目した。

「注射器は、二段構えのトリックです。青酸ガスで橘氏が死亡した後、この注射器が作動する。針の溶解に使われた酸は、注射器の内部に組み込まれた特殊なワイヤーを、毛細管現象によって伝って登り、トリガーを引いた」

【科学解説:化学反応による機械的動作】

「毛細管現象とは、水が細い管中を重力に逆らって昇っていく現象です。この力は非常に小さく見えますが、正確に設計された『科学時計』のトリガーとして利用できます」

「犯人は、注射器の内部で、酸と塩基がゆっくりと反応する緩衝液をセットしていた。酸の濃度が時間とともに変化し、特定の時間が経過した瞬間、その酸が細い管(毛細管)を通じてワイヤーを溶かし、バネ式のメカニズムを作動させる」

「そのメカニズムこそ、橘氏の手に注射器を握らせるためのものだった。つまり、溶解した針を持つ注射器は、橘氏が自殺を試み、失敗して凶器が溶けたようにみせかけるための『化学的に作動する証拠』だったのです。」

【真犯人への接近】

椎名の推理が全て繋がった。

1.青酸ガスの少量注入(電子密室の維持)

2.粘性潤滑剤と磁石による注射器の移動

3.毛細現象を利用した科学時計による「握らせる」動作の実行

すべてが、化学反応速度論と物理学の微細な力を極限まで応用したトリックだった。

「このトリックを実行できるのは、橘氏の研究内容に精通し、特殊な化学物質と高度な電子部品を扱える人物。そして、橘氏が『ある一点』に執着していることを知っていた人物です」

御子柴が、事件後に警察が押収し橘氏の研究ノートのコピーを取り出した。最後のページに、橘氏が血の滲むような力で書き残した、短いメッセージがあった。

『P-237…』

椎名の顔つきが変わった。

「これは、特許出願中の超高耐久性プラスチックの組成式のコードネームです。しかし、このコードの末尾に、『M』というアルファベットが書き足されている…」

「M?」

「メフィストフェレス…まさか、このトリックは、第三者の天才が犯人に提供した『計算』ではないか?」

新たな「科学の闇」の存在を感じた椎名は、静かに、しかし決然とした表情で、次の計算に取り掛かった。

第6話『P-237/Mの暗号と共犯者の影』

【コードネームの解読】

椎名は、橘涼子の研究ノートに残された「P-237…M」のメッセージが、単なる技術的なコードではないと確信した。

「P-237は、超高耐久プラスチックの特許組成式。そしてMは…メフィストフェレスです」

御子柴は息をのんだ。「最初の事件(加賀美隼人による時間トリック)も、今回の溶解密室トリックも、あまりに巧妙で完璧すぎました。あれは、科学の知識を『道具』として完璧に使いこなせる者が仕立てたもの…まさか、トリックを犯人に提供する裏の天才がいると?」

「ええ。加賀美隼人は、確かに電磁波と冷却の法則に詳しかったが、今回の毛細管現象と溶解の化学時計を同時に設計するほどの多岐にわたる知識はない。橘氏もまた、化学の専門家でしたが、電子密室の物理法則を組み合わせた脱出方法までは設計できない」

椎名は、自身の過去の記憶を辿っていた。彼が科学の世界から身を引いた理由の一つに、「科学の功罪」に対する深い失望があった。その闇の片鱗が、今、目の前に現れている。

「橘氏は、自身の研究が『メフィストフェレス』と呼ばれる闇の組織、あるいは個人に狙われていることに気づき、最後の瞬間に、そのイニシャルを遺した。犯人は、彼女の特許を狙う共犯者、あるいは雇われた実行犯です」

【新たな容疑者:元研究者・白石】

警察の再捜査により、橘氏の研究室の元同僚で、現在は競合他社で類似の研究をしている白石悠馬(しらいしゆうま)という人物が浮上した。彼は、橘氏と特許を巡って激しく対立しており、白石の研究室の経費から、今回のトリックに使われた高粘性の特殊な化学溶剤の購入記録が見つかった。

「白石が実行犯で間違いない。彼は、橘氏の特許を奪う動機があり、化学知識も持っている」と御子柴は確信した。

しかし、椎名は首を振った。

「白石が実行犯である可能性は高い。彼は粘性溶剤を購入し、注射器のトリックを仕掛けたのでしょう。しかし、あの溶解する針と、毛細管現象を利用した作動機構は、彼の知識レベルを遥かに超えている」

「なぜそう言い切れるんですか?」

椎名は、白石氏の過去のトリックの構成を比較した。

「白石氏の論文は高分子化学に特化している。彼に、金属の腐食化学や流体力学(毛細管現象)の高度な知識はない。このトリックは、複数の科学分野を統合した設計です。白石氏は、この『メフィストフェレス』から、トリックの設計図と必要な特殊溶剤を『購入』したに過ぎない」

【科学者の倫理と問い】

椎名は、犯人グループの動機は特許だけでないと感じ始めていた。彼が目指すのは、「科学の完璧な悪用」、そして「法則の支配」ではないかと。

「『メフィストフェレス』の目的は、単なる金儲けではない。彼らは、科学知識を悪用することで、自分たちがこの世界の法則を支配できると証明したい。事件の全てが、『科学の知識があれば、犯罪は完全犯罪になり得る』というメッセージを発している」

御子柴は背筋が寒くなった。単なる殺人事件ではなく、科学的テロリズムの萌芽を見ているような気がしたからだ。

「じゃあ、白石氏を追い詰めても、真の黒幕には辿り着けない?」

「ええ。ですが、白石氏の犯行を証明する過程で、彼が『メフィストフェレス』と接触した証拠が見つかるはずです。特に、連絡に使われた暗号化通信や、特殊な取引記録が」

椎名の「計算」は、今、化学と物理から情報科学と暗号理論へと移行していた。天才サラリーマン探偵は、自ら才能を隠し続けた理由となった「科学の闇」と、正面から対峙する準備を始めていた。

【次なる謎】

椎名は、白石氏のパソコンから発見された、不自然な「乱数列」のデータを見つめていた。それは、何の変哲もないノイズの羅列に見えるが、彼の目には、複雑な数学的規則が見えていた。

「これは、ただの乱数ではない。特定の物理定数に基づいて生成された、一回限りの暗号だ。おそらく、この中に『メフィストフェレス』との接触を示す、次の標的のヒントが隠されている…」

事件の舞台は、科学の法則を巡る、より大きく、知的な戦いへと移ろうとしていた。

科学小説『メフィストフェレスの計算』

第1章:偽装された時間

第1話:相対的な遅刻と不可解な残業

【プロローグ】

曇天の平日朝8時20分。満員電車の中で、椎名研人はスマホの株価チャートを無表情で眺めていた。吊革につかまる彼の右手には、年季の入った黒革のビジネスバッグ。中には電卓と、最新の量子力学の原著論文がひっそりと入っている。

「今日は8時45分までにデスクに着かないと、部長の機嫌がな…」

周囲のサラリーマンと同じように、彼は刻一刻と迫る始業時間に神経を尖らせている。「遅刻という事象は、時間と空間の相対的な位置関係によって定義される。」—

そんな思考が頭をよぎるが、すぐに「いや、部長の視界に入らないことが絶対だ」と、凡庸な結論に落ち着けた。

【事件の発生】

椎名の務める「東亜電機」本社ビルから数駅離れた、「ITベンチャー企業が入る高層オフィスビルの地下駐車場で、事件は起きた。

犠牲者:若手起業家、「西崎誠」(29)。彼の遺体が、高級車のトランクから発見された。死因は、劇薬による中毒死。

現場の状況:

1.トランクは厳重に施錠されており、鍵は西崎のスーツのポケットから見つかった。

2.地下駐車場には、防犯カメラが複数設置されているが、遺体がトランクに入れられたと推定される時間帯(前日夜10時~11時)の映像が、なぜかすべてデータ破損で使い物にならない。

3.死体発見時、西崎は真新しい冬物のコートを着ていたが、彼の車内のエアコンは「28度の暖房」に設定され、全開になっていた。

【椎名の登場】

椎名は、東亜電機の経理として、西崎の会社との提携プロジェクトの資料確認のため事件翌日の昼過ぎにこのビルを訪れる。偶然、規制線が張られた地下駐車場の隅を通りかかり、警察の会話を小耳に挟む。

「…不可解だ。真夜中の駐車場で暖房全開。しかもこの時期に冬コート。まるで、時間を胡麻化そうとしたみたいだ」と、捜査官が唸る。

椎名はその一言に反応する。

(時間を誤魔化す?—いや、彼が誤魔化そうとしたのは、温度と時間の関係だ。)

彼は一瞬、瞳の奥に鋭い光を宿す。周囲には無関心を装いながら、ポケットに忍ばせた温度計(彼の「科学の世界」と「普通のサラリーマンの世界」を繋ぐささやかなツール)の数値を見る。彼の天才的な頭脳の中では、既にこの不可解な「暖房とコート」の状況と、「データ破損」が、ニュートンの冷却の法則を応用した、ある種のアリバイ工作に使われた可能性を導き出していた。

「この事件は、犯人が科学の知識を悪用した、『時間トリック』だ」

椎名の静かな独り言は、事件の闇を切り裂く第一声となる。そしてその声を、偶然近くにいたネット記者の御子柴梓が聞いてしまう…。

【手がかりの提示と理論構築】

駐車場で御子柴梓に声をかけられた椎名研人は、一瞬顔を曇らせたものの、すぐに無関心を装い、「人違いでは?」と冷たく突き放した。しかし、諦めない御子柴は、彼の後ろを追ってビルのエントランスまでやってきた。

「ちょっと待って!今の話、どういうことですか?『時間トリック』って。まさか、あの事件について何か知ってるんですか?」

御子柴の焦りに満ちた声にも、椎名は感情を表に出さない。代わりに、手に持った温度計を眺めながら、独り言のように話し始めた。

「遺体の第一発見推定時刻は、昨夜の23時。しかし、警察が確認した遺体の深部温度(直腸温など)は、発見時、まだ周囲の気温よりわずかに高かったはずです」

「それがどうしたっていうんですか?」

「暖房です。彼は真新しい冬のコートを着て、車内の暖房を28度設定で全開にしていた。まるで、自分がまだ生きている時間を偽装しようとしたかのように」

椎名が一歩踏み出し、御子柴に視線を合わせる。

「犯人は、西崎氏が死亡した正確な時刻を隠蔽する必要があった。そのために、冷却の法則を悪用したんです。」

【科学解説:ニュートンの冷却の法則】

椎名は、壁に貼られたビルのフロア図を指でなぞりながら、簡潔に説明した。

「ニュートンの冷却の法則は、熱い物体が周囲の冷たい環境に置かれたとき、その温度低下の速さは物体と周囲の温度差に比例するという法則です。遺体も例外ではありません。死後、遺体は外界との温度差に従って冷えていきます。この冷却の速度を計算すれば、死亡時刻を推定できる」

「つまり、その法則を逆手に取って?」

「ええ。犯人は西崎氏の遺体が発見されるまでの間、車内を高温に保ち、遺体の冷却速度を意図的に遅らせた。これは、警察による死亡推定時刻の計算を狂わせるための工作です。発見時刻の時点で、遺体は実際よりも遅い時間に死亡したように見せかけることができる」

椎名はこのトリックを「相対的な遅刻」と命名した。

「しかし、そのためには犠牲者をコートでくるみ、高温の環境に置くという、不自然な行為が必要になった。これが、犯人の『科学的な自己顕示欲』が生んだミスです」

【新たな疑問とデータ破損の謎】

『でも、防犯カメラのデータが消えているのは?』御子柴が核心に迫る。

椎名はスマホを取り出し、画面を表示させた西崎氏の車の写真を見せた。写真には、高級車の後部座席に、市販の無線ルータのようなものが写り込んでいる。

「犯人が遺体をトランクに押し込んだ時間帯、周囲の防犯カメラのデータだけが消失している。これは偶然ではない」

椎名は、再び天才の片鱗を見せる。

「現代の監視カメラシステムは、映像をデジタルデータとして記録し、無線や有線でサーバーに転送しています。犯人は、強力な電磁波を用いて、特定のカメラのデータ伝送経路を一時的に妨害した。特に無線通信は、特定の周波数の強いノイズに極めて弱い」

【科学解説:電磁波とデータ破壊】

「彼は、市販の無線機器を改造した高出力のジャマー(電波妨害装置)を車内に仕掛けたはずです。このジャマーは、カメラの映像送信がサーバーに届くための周波数帯域をピンポイントで攻撃し、送信中のデータを破損させた」

「そんなことが、普通の機械で可能なの?」

「可能です。電磁波の物理特性を正確に理解し、市販部品を組み合わせれば、安価に、そして一時的に特定のデータのみを破壊できます。このトリックを私は『不可解な残業』と呼びます。

犯人は、自分自身のアリバイを確立するために、データという『時間情報』を物理的に消し去るという『残業』をしたわけです」

御子柴は愕然とした。これほどの知識と技術を、あの目立たないサラリーマンが、一瞬で導き出したことに。

椎名は静かに歩き出した。

『捜査の方向は、『ニュートンの冷却の法則』と『電磁波の応用』に精通している人物。そして、西崎氏の車に容易にアクセスでき、彼をコートでくるむ時間的余裕があった人物に絞られます」

「待ってください!あなたの名前は?」

椎名は振り返らず、一言。

「ただの経理部の椎名です。時間は大切に」

彼の頭の中では、次のステップとして、遺体の具体的な冷却曲線と、電磁波ジャマーに使われたであろう部品の特定へと、計算が進められていた。

第2話:『電磁波の指紋と共振周波数』

【御子柴の追跡】

東亜電機のビルを出た椎名研人は、すぐに近くのカフェに入り、持参したラップトップを開いた。彼が仕事に戻ると思っていた御子柴梓は、必死に後を追った。

「椎名さん!待って。あなたの推理を記事にしたい。協力させてくだい!」

御子柴は食い下がったが、椎名はPCの画面から目を離さない。そこには、市販の無線機器の周波数帯域表と、電磁波の減衰率に関する数式が表示されていた。

「協力、ですか。私には経理の仕事がある。それに、記者のあなたには、私の理論を理解する科学的素養が足りない」

「な、なんですって⁉」

御子柴が反論しようとした瞬間、椎名は画面を指さした。

「『不可解な残業』、つまり防犯カメラのデータ破損に使われた電磁波ジャマーですが、あれは特定帯域の電波を増幅させる共振回路が必要です。高性能な既製品でもなく、改造品である以上、『必ず電波の指紋』が残る」

【科学解説:共振と電磁波の指紋】

共振とは、物体が特定の振動数(周波数)の外部エネルギーを吸収し、その振動を極端に増幅させる現象です。ブランコを押すタイミングと、ブランコが揺れるタイミングが一致すると、小さな力でも大きく揺れるのと同じです。犯人は、カメラのデータ通信に使われる周波数帯に共振する回路を作り、そこに強力な電力を流し込んだ。これにより、短時間でその周波数帯のノイズが最大化し、データが破損した」

椎名は続けた。

「しかし、完璧なジャマーは作れません。改造品には、意図しないわずかな周波数が漏れ出します。これは、製造技術や部品の質の悪さ、配線の不備などから生じるノイズの癖。言わば、そのジャマーが持つ“電磁波の指紋”です。」

「その指紋を、どうやってみつけるんですか?」

「被害者・西崎氏の会社のビルはITベンチャー。周囲には、無線LANやBluetooth

など、無数の電波が飛び交っています。しかし、事件後の電波記録を詳細に分析すれば、通常ではあり得ない“スパイク”つまり異常な出力ノイズの記録が見つかるはずです。そのノイズの波形と周波数スペクトルが犯人特定の手がかりになる」

【経理部の天才の仕事】

椎名はPCを閉じ、立ち上がった。

「私の推理が正しいと仮定するなら、犯人は西崎氏とデータ通信技術、または電波物理学の分野で接点があった人物。そして、あの車にジャマーを仕掛け、暖房をセットする動機があった」

御子柴はメモを取る手が止まらない。

「じゃあ、あなたはこれからどうするんですか?」

「私は経理です。費用対効果を計算する。犯人がジャマーを作るにかかった部品代、そして『不可解な残業』を実行するために費やした時間。これらはすべて、彼のコスト意識、つまり人間性に繋がります」

椎名が向かったのは、警察署ではなく、秋葉原の電気街だった。彼は御子柴を連れて、電子部品店に入ると、迷いなく棚を指さした。

「この高周波増幅器(アンプ)、そしてこの指向性アンテナ。これらを組み合わせれば、あの程度のジャマーは作れる。総額はせいぜい5万程度。そして、これらの部品を過去に大量購入した記録を、ネットの販売履歴や会社の経費記録から追跡すればいい」

天才は、その超絶的な知識を、地味な「経理」という手法に落とし込み、犯人の「金と時間の使い道」から、彼の正体に迫ろうとしていた。

【次なる手がかり】

その夜遅く、御子柴が持ってきた西崎氏の会社の経費明細を見た椎名は、ある一点に目を留めた。それは、西崎氏のライバル企業である「シンク・ラボ」の研究員・加賀美隼人が、事件の3ケ月前に「試験用電波測定器」として、数万円の高周波部品を大量に経費申請していた記録だった。

「見つけた。これが、犯人の残した『電磁波の指紋の原点』だ。加賀美隼人…彼は『暖房とコート』のアリバイ工作を作った以上、西崎氏を殺害する絶対的な動機を持っていたに違いない」

椎名の顔に、初めて微かな笑みが浮かんだ。それは、難解な数式を解き明かした者が持つ、静かな歓喜の笑みだった。

第3話:『熱力学第二法則と破られた約束』

【加賀美の動機と実験】

椎名研人と御子柴梓は、加賀美隼人という人物像を洗い出すことから始めた。加賀美は、西崎誠が経営するITベンチャーと共同開発を進めていた研究者だった。二人は「次世代型超高速データ通信システム」の特許をめぐり、激しく対立していたという。

「西崎氏が、特許の単独所有権と主張し、加賀美氏の研究成果を横取りしようとしていた。これが動機でしょう」と御子柴は資料をまとめた。

椎名は加賀美の経費明細に再び目を向けた。

「動機は明白。問題は、彼のアリバイです。事件推定時刻の夜10時頃加賀美氏は自分の研究室で徹夜していたと証言している。これをどう崩すか」

「でも、彼は『暖房とコート』と『電磁波ジャマー』のトリックを使ったんですよね?そのトリックが、彼の徹夜のアリバイを完璧に崩すんじゃないですか?」御子柴は尋ねた。

「その通りです。そして、そのアリバイの崩壊を決定づけるのは、熱力学の法則です」

【科学解説:熱力学第二法則と時間の矢】

椎名は、カフェのテーブルの上のコーヒーカップを指した。

「私たちは、温かいコーヒーが冷めていくのを見ても驚きませんが、冷え切ったコーヒーが自然に熱くなるのを見たら、魔法だと思います。これは、熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)が支配しているからです」

「エントロピーとは、簡単に言えば『乱雑さの度合い』。自然界は常に、このエントロピー、つまり乱雑さが増大する方向に進みます。熱は必ず高温から低温へ移動し、時間は常に未来に向かって進む。この一方通行の流れは、『時間の矢(Arrow of Time)』とも呼ばれます。

熱力学第二法則と時間の矢についてはこちらで詳しく解説しています➡【時間はなぜ逆戻りしないの?「物理学が解き明かす時間の謎」】

「加賀美氏は、遺体を高温の車内におくことで、ニュートンの冷却の法則による死亡時刻を操作しようとそました。しかし、彼がどれだけ暖房を効かせても、遺体は死後硬直や血流停止といった不可逆な生命現象の変化を止められません。特に、人体内部は、周囲の温度操作の影響を完全には受けきれない」

熱力学第二法則と時間の矢についてはこちらで詳しく解説しています➡【時間はなぜ逆戻りしないの?「物理学が解き明かす時間の謎」】

【決定的な証拠:血液の凝固】

椎名は、警察の検視報告書を広げた。

「事件推定時刻より前に遺体が死亡していた決定的な証拠は、彼の血液の凝固状態です。西崎氏の遺体は、トランクに詰め込まれていたため、特定の体勢で発見されています。その体勢で血流が停止すると、重力に従って血が沈殿し、死斑が発生します。そして、時間が経つにつれ血液内の酵素が働き、不可逆的に凝固します」

「もし西崎氏が『暖房トリック』で偽装された時刻に死亡したのなら、血液の凝固はまだ初期段階にあるはず。しかし、報告書によれば、凝固はすでに完全な状態に達していた。これは、偽装された時刻よりも遥かに早い時間に死亡したことを示しています」

「熱(温度)は操作できても、生化学的なエントロピーの増大は操作できない。加賀美氏は、科学の法則を悪用しようとしましたが、より根本的な法則によって、自らのアリバイを破られたわけです」

御子柴は鳥肌がたった。科学の天才は、事件を解く際に、宇宙の基本的なルールまで引き合いに出すのかと。

【対決】

椎名と御子柴は、加賀美隼人がいる研究室へと向かった。研究室の片隅には、分解された高周波増幅器と、冷却の実験に使ったと思われる温度計と断熱材の切れ端が隠されていた。すべて、椎名が経費明細から予測した通りだった。

椎名は静かに加賀美に語りかけた。

「あなたは、ニュートンの冷却の法則と電磁波の物理的性質を理解していた。だから、完璧な時間とデータの偽装ができると考えた。しかし、熱力学第二法則を無視しました」

「西崎氏の血液凝固は、あなたが徹夜で仕事をしていると偽った夜10時より、最低でも2時間以上前に、彼が死亡していたことを証明している。あなたには、その時間、西崎氏を呼び出すことができ、そして、彼の命を奪い、トリックを仕掛ける時間的猶予があった」

加賀美は、静かに笑った。

「面白い。私は科学で勝負を挑んだつもりだったが、結局、最も基本的な法則に足元を掬われたわけか…」

彼は敗北を認め、すべてを自白した。研究を裏切った西崎への憎悪が、彼を天才科学者から犯罪者へと転落させたのだ。

【エピローグ】

事件は解決した。御子柴は、天才サラリーマン探偵・椎名研人の活躍を匿名記事として発表し、大きな話題をよんだ。

東亜電機の経理部に戻った椎名は、何事もなかったかのように伝票をチェックしている。

「椎名さん、次の事件は、どんな法則が使われるんでしょうね?」御子柴が尋ねた。

椎名は電卓を叩く手を止めず、答えた。

「宇宙には、まだ解明されていない謎が無数にある。そして、人間がそれを悪用しようとする限り、私の『計算』の仕事は終わりません」

彼の瞳の奥に、再び静かな、しかし確かな「科学の光」が宿っていた。