特別編2:マスクウェルの悪魔と始まりの紹介状
一
「…もう、どうにもならないわ。盤面が複雑に絡まり合いすぎて、どこから手をつければいいのかすら分からない」
数年前の、冷たい雨が降る秋の夜。喫茶「ラプラス」のカウンターで、深くため息をつきながら頭を抱えていたのは、藤堂玲香(とうどう・れいか)だった。
手元には、複雑な人間関係や企業の思惑が記された数枚の資料。彼女が直面している問題は、あまりにも多くの要因がカオスのように入り乱れ、正攻法では到底解決の糸口が見えない状態に陥っていた。
マスターの来栖は、静かにダージリンの茶葉をポットに入れながら、彼女の独り言に耳を傾けていた。「玲香さん。物理学の世界でも、一度バラバラに混ざり合った気体や熱を、再び綺麗に二つに分けることは不可能とされています。いわゆる、エントロピー増大の法則ですね」
玲香は顔を上げ、力なく笑った。「ええ。今の私の状況と同じね。一度こじれた思惑とカオスは、元に戻せない。……マスターの物理学でも、このカオスは解決できないかしら?」
二
「私のような『ただの物理学者』には不可能です。…ただ、物理学の思考実験の中には、その絶対的な法則を破る存在が一つだけ定義されています」来栖は、香り高い紅茶を注いだカップを玲香の前にそっと置いた。
「それが『マクスウェルの悪魔』です」
「悪魔…?」
「ええ。二つの部屋を繋ぐ小さな扉の前に、その悪魔は立っています。悪魔は、飛んでくる分子の動き(情報)を完璧に観察し、素早い分子が来た時だけ扉を開け、遅い分子が来たら扉を閉める。そうやって情報を完璧にコントロールすることで、エネルギーを使わずに、無秩序なカオスの中に『秩序』を作り出してしまうんです」
来栖は、カウンターの上の砂時計を静かにひっくり返した。
「つまり、圧倒的な『情報処理能力』と『観察眼』を持つ存在がいれば、どんなにこじれたカオスも、都合よく盤面をコントロールして綺麗に整理できてしまうということです」
「…ロマンチックな思考実験ね」玲香は紅茶を一口飲み、ふうっと息を吐いた。「でも、それはあくまで理論上の話でしょう?そんな都合のいい情報を完璧に処理して、盤面を操る悪魔なんて、現実には存在しないわ」
三
「ええ。物理の世界には存在しません。ですが…」来栖はふっと口角を上げ、カウンターの下から店のロゴが入った白い紙製のコースターを取り出した。
「人間の社会という盤面においてなら…一人、うってつけの『悪魔』を知っていますよ」
玲香は目を見開いた。「悪魔…?一体、誰なの?」
「少々食えない男ですが、盤面の計算式(シナリオ)を組み立てる能力は天才的です。彼の眼には、人々の思惑が分子の動きのように見えているのかもしれません。……彼なら、あなたのその絡み合った難題を、鮮やかに仕分けしてくれるでしょう」
来栖は万年筆を取り出し、コースターの裏に流れるような筆致で一人の男の名前と連絡先を書き込み、玲香へ静かに差し出した。
「ただのサラリーマンですよ。…甘いものと、キリマンジャロを用意して依頼すれば、きっと面白がって扉を開けてくれるはずです」
玲香は、コースターに記されたその文字をじっと見つめた。そこには、『椎名賢人』という端正な文字が書かれていた。
雨音だけが響く静かな喫茶店の中で、天才サラリーマンと藤堂玲香の歯車が、確かに噛み合った瞬間だった。
(特別編2.完)
———今夜の処方箋:コラボレーション特別編2———
今回の特別篇は、当ブログの連載小説『天才サラリーマン椎名賢人の事件簿』の前日譚(エピソード・ゼロ)となる物語です。難題に直面した藤堂玲香に、椎名賢人という「切り札」を紹介したのは、なんと喫茶ラプラスのマスター・来栖でした。物理学の思考実験である「マクスウェルの悪魔」のように、情報を操りカオスに秩序をもたらす天才サラリーマン。彼の活躍は、ぜひ本編でお楽しみください!
【本編はこちら】天才サラリーマン椎名賢人の事件簿
