特別編:天才サラリーマンとラプラスの悪魔
一
雨がそぼ降る金曜日の夜。カラン、と真鍮のベルを鳴らして喫茶「ラプラス」に入ってきたのは、少し濡れたトレンチコートを羽織った鋭い眼光の男だった。
「まだ…、開いてますか」「ええ。どうぞ、カウンターへ」
男はコートを脱ぐと、迷うことなくカウンターの端に座った。その洗練された所作を、周囲を瞬時に観察するような抜け目のない視線、マスターの来栖は、一目で彼がただの会社員ではないことを見抜いた。
「キリマンジャロを。…それと、頭を使う仕事のあとなので、何か甘いものを」「畏まりました」
男——椎名賢人(しいな・けんと)は、ネクタイを少し緩めながら小さく息を吐いた。とある企業を舞台にした複雑な事件を解決に導き、ようやく一息つけたところだった。ふとみつけたこの時代遅れの純喫茶は、疲れた頭を休めるには丁度いい。
来栖が静かにサイフォンを操る様子を眺めながら、賢人はポツリと口を開いた。「…『ラプラス』。面白い店名ですね。フランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスから?」
来栖は手を止めずに微笑んだ。「ええ。あるいは、彼が提唱した『ラプラスの悪魔』からかもしれません」
二
「『ある瞬間の宇宙のすべての原子の位置と運動量が分かれば、未来は完全に予測できる』…古典物理学の決定論ですね。マスターは、未来はすべて決まっているとお考えで?」賢人の瞳に、探るような光が宿る。
「まさか。量子力学が示す通り、ミクロの世界は確率で揺らいでいますから、未来を完全に予測することなど不可能です。ただ…」来栖は抽出したキリマンジャロと、自家製のガトーショコラを賢人の前に静かに置いた。
「人間の『感情』や『行動』の因果関係は、案外、古典物理学のように予測しやすいものですよ。焦ればミスをし、隠し事をすれば視線が泳ぎ、エネルギーを使えば甘いものを欲する。…あなたのように、そこから鮮やかに『真実』を導き出す方がいやっしゃるように」
賢人はコーヒーカップに伸ばしかけた手をピタリと止めた。「…マスター。あなたは一体・・・」
「ただの、しがない珈琲屋ですよ」来栖は穏やかに笑い、カウンターの奥へ一歩下がった。「お疲れのようですから、今夜は因果律や事件のことは忘れて、糖分とカフェインの化学反応を楽しんでください」
三
賢人はしばらく来栖を見つめていたが、やがてフッと口角を上げた。「…なるほど。どうやら、僕の同僚の『天才物理学者』と気が合いそうな人がここにもいたらしい」
賢人はガトーショコラを一口切り分け、口に運ぶ。濃厚なカカオの香りと糖分が、疲弊した脳のシナプスに染み渡っていくのを感じた。
「美味しいですね。…確かに、この味だけは『ラプラスの悪魔』にも予測できなかったかもしれない」「お褒めに預かり光栄です。椎名さん」
来栖がなぜ自分の名前を知っているのか――賢人はあえて野暮な質問はしなかった。ただ、この奇妙で居心地の良い空間と、目の前の底知れないマスターとの静かな邂逅(かいこう)を、極上のコーヒーと共に楽しむことにした。
外の雨音は、いつの間にか静かに止んでいた。
(特別編・完)
今夜の処方箋:コラボレーション特別編
今回は特別編として、当ブログで連載中の『天才サラリーマン椎名賢人の事件簿』より、椎名賢人が喫茶「ラプラス」に立ち寄ってくれました。物語の垣根を越えた、元・物理学者のマスター来栖と天才サラリーマンの知的な会話。作中で賢人が言及した「同僚の天才物理学者(浅倉蓮)」がこの店を訪れたら、一体どんな高度な科学論争が繰り広げられるのでしょうか。
賢人の活躍が読める本編も、ぜひあわせてお楽しみください!
【本編はこちら】[天才サラリーマン椎名賢人の事件簿―その科学デバッグします—]
