《ENTROPY CRITICAL:SYSTEM OVERWRITE COMMENCED》
空間全体が崩落していく。美しい白い花畑がコードの破片となって夜空へと舞い散り、歪んだ虚構の世界が剥がれ落ちていく。
「ぐ……うああぁぁぁっ……‼」
閉鎖型メタバース『AETHER』のコアシステムへ直結した賢人の体(アバター)に、数千万ギガバイトにおよぶデータのエントロピーが津波のように逆流して押し寄せる。
「賢人先輩っ!脳波レベルが危険域です!このままじゃ賢人先輩の意識までノイズに吞み込まれちゃいますっ!」
比嘉が叫び、泣き出しそうな顔で光のキーボードを叩き続ける。
「小僧!頑張れ‼」
大野参事官が激しいデータの暴風の中、脚を踏ん張り、賢人のアバターの肩を力強く掴み叩いた。
「画面の中の幻なんかじゃねぇ!俺たちの手が、足が、ここにある!現実へ帰るぞ‼」
「ええ……!」
賢人は歯を食いしばり、眼鏡の奥の瞳に青い思考の光を最大限にみなぎらせた。
「Entropic_Loopを破棄…『一方向型通信』のコードを書き換え、双方向の現実帰還プロトコル(リアル・フィードバック)へ再定義(デバッグ)する…!
賢人の指先から放たれた光の方程式が、天空に浮かぶ無数の『光の繭』を優しく包み込んでいく。
カチ、と世界が反転するような澄んだ音が響いた。
繭の中に眠っていた被害者たち、そして鳴海の妹・葵のアバターが、温かな光の粒子となって現実世界(自らの身体)へと次々に送還されていく。
「葵…!葵っ…‼」
錯乱していた鳴海零が、光となって消えていく妹の残像へ手を伸ばす。
その時、消えゆく葵のアバターが静かに振り向き、柔らかく微笑んだ。
『お兄ちゃん…温かいよ。…私、お兄ちゃんと一緒に、もう一度現実で歩きたい…』
「あ…あぁ…葵ぃ…っ‼」
鳴海はその場に崩れ落ち、虚空の空に向かって涙を流した。
「…デバッグ、完了だ」
賢人が静かに呟くと同時に、空間全体が眩しい光に包まれ――
ハッ…‼
警視庁のサイバー特別捜査室。
VRデバイス『Neuro link-Z』を外した賢人が、静かに体を起こした。
隣では、大野参事官が猛然とゴーグルをひっぺがし、深く息を吐き出している。
「ハァ…ハァ…!クソが、とんでもねえ『現場』だったぜ」
そして、各所の病院から次々と朗報が入ってきた。
昏睡状態に陥っていた12名の被害者全員が意識を取り戻し、病室で家族と手を握り合っているという。鳴海の妹・葵もまた、無事に意識を取り戻し、容体は安定していた。
数日後。秋晴れの澄み渡る空の下、千代田区の『slabo』事務所。
「賢人兄ちゃん!今日は『現実の触覚』を味わう特製焼きたてアップルパイだよ~!」
のあが焼きたての香ばしいパイを運んでくると、事務所全体に甘い香りが広がる。
「うわぁぁ!サクサクでめちゃくちゃ美味しいですっ!」
比嘉がパイを頬張りながら声を弾ませる。
窓辺では、エラが穏やかに注いだジャスミンティーから温かな湯気が立ち上っていた。
そこへ、重い足音とともにドアが開く。
「邪魔するぞ」
現れたのは、大野参事官と藤堂警部だった。
大野は不機嫌そうに鼻を鳴らしながらも、手にした紙袋をテーブルの上に置いた。
「鳴海零は送検された。…だがあいつ、病院で妹の手を握りながら『現実の医療と情報技術を正しく融合させる研究をやり直す』と言っていたよ」
「…そうですか」
賢人は静かに立ち上がり、寸分の狂いもなく眼鏡のブリッジをスッと押し上げた。
「現実(リアル)には、病や痛みというバグがあります。ですが…それを乗り越えようとする人間の意志と、互いに触れ合える温もりがある。それこそが、解き明かすべき最も美しいロジックです」
「ハッ、相変わらず生意気な口を叩く小僧だ」
大野は大げさに肩をすくめると、不敵な笑みを浮かべてパイポを噛みしめた。
「だが…悪くねえ。お前たちのその鼻持ちならねえロジック、たまには現場でまた使わせてやるよ」
「ええ。いつでもデバッグしてみせます」
窓から差し込む秋の陽光が、チームslaboと大野たちの温かな笑顔を包み込んでいく。
虚構を超え、現実の温もりを抱きしめた彼らの冒険は、これからもこの世界とともに続いていく――。
第4部『虚構のメタバース』 【完】
次回 第5部 鋭意作成中
