第5話:現実と虚構の境目

「『N-zero方程式』…。一見すると完璧な非線形多様体の幾何学構造だが、鳴海、君は重大な欠陥(バグ)を見落としている」

エラが中和した静寂の中で、賢人の静かな声が響き渡った。

賢人が一歩踏み出すごとに、足元から青い数式(コード)の波紋が「楽園(エデン)」の花畑へと広がっていく。

「欠陥だと…⁉ 戯言を!この方程式は、人間の意識を100%デジタル情報に変換し、肉体という制約から完全に解き放つための絶対の解だ!」

鳴海が感情を露わにして叫ぶ。背後の脳波同調装置が、激しい赤い光を放ち始めた。

「いいえ、鳴海さん。賢人先輩の言う通りです…!」

比嘉がノートPCを叩きながら、解析画面を空中に投影する。

「この空間のデータ通信ログ…『一方向(送信のみ)』になっています!ユーザーの脳から情報を受け取るだけで、現実の身体へのフィードバックを戻す回路が最初から遮断されているんです!」

「…それがどうした」鳴海が冷ややかに言い放つ。「戻す必要などない。現実の身体など、いずれ朽ち果てればいい」

「それが君の最大のバグだ、鳴海」

賢人は寸分の狂いもなく眼鏡のブリッジをスッと押し上げた。

「情報理論において、完全な事故閉鎖型システムは『熱的死(エントロピーの極大化)』を免れない。外部(現実)との相互作用を断ち切った意識データは、最初は理想郷に見えても、時間とともに情報が劣化し…最終的には『無限の無(ノイズ)』へと崩壊する」

「な……に……?」鳴海の顔から色が失われていく。

「君が作ったこの『楽園』は、救済の場などではない。被害者たちの意識を…そして君自身の妹・葵さんの魂を、ゆっくりと消滅させる『デジタル火葬場』だ!」

賢人の一言が、雷鳴のように空間を突き刺した。

「そんなはずはない…!私は葵を…葵の痛みを救うために…‼」

鳴海の動揺に呼応するように、白い花畑が激しく歪み、空中浮遊していた光の繭(被害者たちの意識カプセル)が次々と赤く明滅し始めた。

《WARNING:ENTROPY OVERFLOW—SYSYTEM IN 180 SECONDS》

「システムが崩壊を始めたぞ!このままじゃ全員の意識がノイズになっちまう!」

大野参事官が声を張り上げる。

「鳴海!自分の間違いを認めろ!妹さんを本当に救いたいなら、今すぐ現実へ引き戻せ!」

藤堂も叫ぶが、鳴海は「う……あぁぁぁっ……!」と頭を抱えて崩れ落ち、錯乱状態に陥っていた。自分の方程式の欠陥を突きつけられ、完全なる拒絶反応を起こしている。

「ダメです!鳴海本人の管理情報(管理者ID)がフリーズしました!システムの緊急停止ができませんっ!」比嘉が悲鳴をあげる。

「賢人」エラが静かに語りかける。「彼を救いなさい。そして、囚われたすべての人々を」

「…ええ」

賢人の瞳に、すべての計算を凌駕する絶対的な決意の光が宿った。

「比嘉さん、僕の脳波のダイレクトアクセス権限を『AETHER』のコアシステムへ全開放しろ。僕が直接、この閉じた世界の構造を再構築(デバッグ)する」

「賢人先輩⁉そんなことしたら、賢人先輩の脳がエントロピーの逆流に巻き込まれて…!」

「僕には…仲間がいる。僕を現実につなぎ止めてくれる『確かな手』がある」

賢人はエラ、比嘉、藤堂、そして大野参事官を順番に見つめ、不敵な笑みを浮かべた。

「全員の意識ログを現実(リアル)の身体へ書き戻す。…デバッグ、開始だ!」

光と数式が賢人を包み込み、現実と虚構の境界線(フロンティア)を懸けた、最後の演算が解き放たれる――!

第5話:現実と虚構の境目 【完】

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