連載小説『喫茶ラプラスの処方』#6

第6話:波長とノイズキャンセリング

一

「…はあ、今日も一日中、神経がすり減った」

火曜日の夜、喫茶「ラプラス」の重厚な木の扉を押し開けたのは、メーカーの営業部で働く結衣(ゆい)だった。彼女は耳をすっぽりと覆う大きなヘッドホンを外し、ため息とともにカウンター席へと身を沈めた。

「お疲れ様です、結衣さん。今日は随分とノイズの多い一日だったようですね」

カウンター席の奥で、来栖ペーパードリップの準備をしながら静かに声をかけた。

「マスター、聞いてくださいよ。うちの職場の先輩、本当に私と『波長が合わない』んです。私が何を提案しても頭ごなしに否定してくるし、それに私が言い返すとさらにヒートアップして大声になるし。もう、あの人と話しているだけで嵐の中にいるみたいに疲れるんです」

結衣はテーブルに置いた自分のヘッドホンを指で弾いた。「職場の人間関係も、このヘッドホンみたいにスイッチ一つでノイズを消されたらいいのに」

来栖は、細いお湯の筋をコーヒー粉の中心に落としながら、ふっと口角を上げた。「結衣さん、職場の先輩のノイズを消すスイッチは、物理学を使えばあなた自身で押すことができますよ」

「えっ物理で人間関係のノイズが消せるんですか?」

二

「ええ。光も、音も、そして海のうねりも、この世界のあらゆる『波』には、ある共通の面白い性質があります。それは『干渉(かんしょう)』という現象です」

来栖は抽出を終えたコーヒーをカップに注ぎ、結衣の前に静かに置いた。

「波と波がぶつかったとき、それらはボールのように弾き返されるのではなく、重なり合います。もし、お互いの波の『山と山』が同じタイミングで重なったらどうなると思いますか?」

「えっと…もっと大きな山になる?」

正解です。波のエネルギーは足し算され、元の2倍の大きな波になります。これを『強め合う干渉』と言います。あなたが先輩の強い口調(波の山)に対して、同じように感情的になって言い返している(波の山)状態です。これでは、職場のノイズは大きくなる一方ですよね」

結衣は少しバツが悪そうに肩をすくめた。「確かに。言い返した後は、余計に空気が最悪になります」

「そこで、結衣さんが持っているそのヘッドホンの登場です」来栖は結衣のヘッドホンに目を向けた。

「ノイズキャンセリング機能は、分厚い壁で音を物理的に遮断しているわけではありません。マイクで外の騒音(波)を拾い、それと『全く逆の形(山と谷が逆転した波)』を人工的に作り出してぶつけているんです。波の山と、波の谷がピタリと重なると、波は互いに打ち消し合って『ゼロ』になります。これが『弱め合う干渉』です」

三

「波で、波を打ち消す…」結衣は自分のヘッドホンを見つめながら呟いた。

「そうです。人間関係も同じですよ。相手が感情の『山』をぶつけてきたとき、真正面から壁を作って耐えようとすれば、あなたは膨大なエネルギーを消耗します。同じように『山』でぶつかり返せば、大喧嘩になる

来栖は優しく微笑んだ。「だから、『位相(タイミング)』をずらすんです。相手が山で来たなら、あなたはすっと力を抜いて『谷』で受け流す。相手が熱くなっている時は、あえて冷静に共感の相槌だけを打つ。相手の波長を無理に変えようとするのではなく、自分が『逆の波』をスッと合わせることで、驚くほど相手の勢いは相殺されて消えていきます」

結衣は、ゆっくりとコーヒーを一口飲んだ。香ばしい香りと共に、心の中でガチガチに固まっていた防護壁が、ふっと溶けていくような感覚がした。

「…なんだ。私、先輩の波を真正面から受け止めて、一生懸命押し返そうとしてたから疲れていたんですね。ノイズキャンセングみたいに、スッとタイミングをずらして打ち消せばよかったんだ」

「ええ。相手のノイズを消せるかどうかは、あなたの受け流し方次第です。優秀なノイズキャンセリング機能を持った結衣さんなら、きっと明日の職場は少し静かになりますよ」

「…マスター、ありがとうございます。明日はちょっと、実験するつもりで職場に行ってみます!」

結衣が笑顔で店を出て行くとき、ドアについた真鍮のベルがチリンと澄んだ音(波)を立てて、静かな夜の街へ優しく広がっていった。

(つづく)

———今夜の処方箋:科学の小部屋———

~「波長が合わない」を物理で解決?波の干渉とノイズキャンセリング~

物語の中でマスターが語っていた「波の干渉」。音や光、さらには量子力学の世界に至るまで、「波」は重なり合うことで大きくなったり、逆に打ち消し合って消えたりする不思議な性質を持っています。身近なノイズキャンセリング・イヤホンも、まさにこの物理法則を利用したテクノロジーです。

当ブログのこちらの記事では、図解を交えながら「波の性質(干渉・回析・共鳴)」について分かりやすく解説しています。「あの人とは波長が合わない」と感じたときのヒントも隠されているかもしれません。ぜひ覗いてみてくださいね!

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