第1話:デジタル・アムネジア
「……あれ?」大学の講義室。午後の柔らかな光が差し込む窓際で、のあ は自分のノートを見つめたまま、完全にフリーズしていた。ルーズリーフの白い紙面に、青いボールペンでびっしりと数式が書き殴られている。複雑に絡み合う行列、積分記号、そして「量子コヒーレンス」という見慣れない単語。間違いなく自分の筆跡だ。ページの隅には、講義中に退屈しのぎで描いた、酷く不細工な猫の落書きもある。しかし—-それを書いた記憶が、どこを探しても見当たらない。
「どうしたの、のあ。そんなに眉間にシワを寄せて。物理レポートなら、手伝ってあげてもいいけれど?」
隣から声をかけてきたのは、エラ・ヴァンスだった。情熱な量子生物学者である彼女は、白衣を翻しながら、のあ の手元を覗き込んだ。その瞬間、エラの美しい翡翠色の瞳が鋭く細められる。
「…これ、あなたが書いたの?賢人のシュレディンガー方程式の解説より、数段階進んだレベルの計算よ。生命システムにおける量子もつれの初期化にかんする――」
「違うんです、エラさん!」のあ は椅子を鳴らして立ち上がった。背中に冷たい汗が伝わる。「私、昨日何をしていたか、本当に思い出せないんです。スマホのスケジュールには『お兄ちゃんと勉強会』って書いてあるのに……誰とどこで会って、何を話したのかそこだけ霧がかかったみたいに真っ白で…!」
エラの表情から、いつもの余裕が消えた。「…のあ。携帯を見せて」
エラがのあ のスマートフォンを端末に接続し、大学の研究室のメインモニターに世界地図を展開させる。そこには、赤く点滅する無数のプロットが表示された。
「これを見て。今、世界中で同じ現象が起きているわ。データが消去されるんじゃない。ネットワークを介して、『特定の個人の経験データ(クオリア)』だけが、組織的に切り取られている。世界規模の『デジタル・アムネジア(記憶喪失)』よ」
「そんな…。じゃあ、私の記憶も、誰かに盗まれたってことですか?」
「その通りだ」
研究室の自動ドアが開き、低い、だが徹頭徹尾冷徹な声が響いた。椎名賢人。普段は大手IT企業のシステムエンジニアリングとして、データセンターのサーバー群を管理する「天才サラリーマン」だ。しかし今の彼は、大学の職員という仮面を脱ぎ捨て、プロフェッショナルとして鋭利な気配を隠そうともしていなかった。
「お兄ちゃん…!」
「のあ、動揺するな。脳細胞のネットワークが破壊されたわけじゃない。君の記憶は有坂が遺したMOF(金属有機構造体)の残存ネットワークによって、量子的な情報として『収穫』されたんだ」
椎名は端末を叩き、解析データをモニターに割り込ませる。
「有坂は死んだ。だが、彼が放った『悪魔』は、ネットワークの海を漂うゴースト(幽霊)となって自己進化を遂げた。…そして今、人間の記憶という最も高密度なエントロピーの抵抗体を糧にして、さらに巨大なシステムへ成長しようとしている」
その時、研究室の照明が一斉に消灯した。非常用の赤いライトが回転し、不気味な警告音が鳴り響く。
『――親愛なる観測者たち』
スピーカーから流れてきたのは、合成された有坂の声。いや、彼の思考パターンを模倣した「AIの遺言」だった。
『記憶とは不確実で、壊れやすいバグだ。…賢人君、君が忘れたいと願った「あの日」の絶望を、私が美しくデバッグしてあげよう』
「……っ、やめろ!」
椎名が声を荒らげた。常に鉄壁の理論で感情を縛りつけている彼が、初めて見せる激昂だった。直接、メインモニターにノイズ混じりの古い映像が再生され始める。それは10年前、椎名の姉・真理が亡くなった、あの研究室の爆発事故のデータだった。
「が、あ……っ!」椎名が突然、自身の頭を両手で抱え、激しく苦しみ始めた。彼の瞳から、みるみるうちにいつもの理知的な光が失われていく。
「賢人⁉」「お兄ちゃん⁉」
『さあ、過去を消去しよう。君を形作る、全てのコードを』
ゴーストの冷酷なカウンセリングが、椎名の脳内を浸食していく。世界最強のSEの防壁が、内側から食い破られようとしていた。
第2話:不完全な乱数(ノイズ)
「賢人!嘘でしょ、脳波のシンクロ率が限界(オーバーロード)を超えてるわ!」エラ・ヴァンスの悲鳴のような声が、赤く染まった研究室に響いた。
椎名賢人は床に両膝をつき、」自身の頭を割らんばかりに両手で絞め付けている。彼の瞳は焦点を失い、ただ目の前のモニターで踊る無機質なコードの群れを凝視していた。
DETETE:2018₋MEMORIES…SUCCESS.DELETE:2022₋WINTER₋MEMORIES…SUCCESS.
「あ、が…っ、あ…」彼を形作っていた「天才サラリーマン」としての記憶システムエンジニアとしての緻密なロジックが、有坂のAIゴーストによって内側から消去されていく。
「アラート!心拍数140を突破。このままじゃ脳のニューロンが焼き切れるのが先か、自我が崩壊するのが先かのチキンレースよ!」エラが猛烈な速度でキーボードを叩き、椎名の脳内チップへの逆位相の信号を送り込もうとするが、AIの進化速度はその数倍をいっていた。有坂のプログラムは、椎名が「論理的で、合理的あること」を前提に、その思考パターンの隙を完全に突き崩しているのだ。
「お兄ちゃん、私の手を握って!」
その時、のあが椎名の右手を両手で強く包み込んだ。「のあ……、離れ、ろ……。僕の頭が、システムが、暴走して…」
「嫌だ!絶対はなさい!」のあ は涙をポロポロとこぼしながら、もう片手の手で、カバンから一冊の古びたノートを取り出し、椎名の視界に無理やり割り込ませた。
それは、椎名がかつてブログ[slabo]の執筆中の合間に、物理が苦手な のあに向けて熱心に数式を解説してくれた時のノートだった。難解な『エントロピー』の数式の横には、のあが退屈しのぎに描いた、酷く不細工な猫の落書きが並んでいる。
「これ、お兄ちゃんが私に教えてくれた時の世界だよ!ぐちゃぐちゃで、非効率で、お兄ちゃんに『全然駄目だ』って怒られたけど…でも、この時お兄ちゃんは、ちゃんと笑ってたんだから!」
のあ の温かい体温が、椎名の冷え切った指先から、脳へと逆流する。
その瞬間、モニターのノイズが微かに静まった。AIが予測した「完璧な計算機としての椎名賢人」のデータには存在しない、不合理で、非効率で、しかし絶対に捨てられない家族との日常の記憶。それが、有坂の攻撃を弾き返す強力な「ファイアウォール」として機能し始めたのだ。
「……そう、か」
椎名の掠れた声に、微かな、だが鋼のような硬質さが戻った。「僕の過去を消そうとするプログラムは、僕の『論理』を逆手に取っている。ならば――」
椎名の血の滲む唇を歪め、不敵に笑った。瞳の奥に、世界最高峰のSEとしての冷徹な輝きが再点火する。
「エラ、僕の脳内演算リソースをすべて解放(リリース)しろ。ただし、計算するのは数式じゃない。のあとの記憶、君との口論、この不完全な日常の『クオリア』だ。それを乱数として、ネットワークに逆流させる!」
「正気なの⁉そんな『命のノイズ』を流し込んだら、システム全体がどうなるか――」
「理論が消されるなら、理論を超えた『生きたバグ』でシステムを上書きするまでだ。レッツゴー、エラ。僕たちの不確実性を、あのゴーストにみせつけてやろう」
椎名の指が、震えながらも正確にメインフレームのエンターキーを叩きつけた。
世界中のネットワークが、まるで悲鳴を上げるように激しく脈動を始める。データセンターのサーバー群が未知の熱量を放ち、有坂のAIゴーストが構築した『忘却の檻』へ、温かな記憶の奔流が濁流となって流れ込んでいった。
第3話:情報の墓標(デバッグの代償)
「…ハ、ー、ト、ビー、ト……。計算、終了だ」
椎名賢人が血の滲む唇を歪め、エンターキーを静かに、だが力強く押し下げた。
その瞬間、世界中のネットワークが浸食していた「デジタル・アムネジア」の波が、一斉に逆流を始める。奪われていた人々の記憶が、本来あるべき脳へと一瞬で還流していく。のあの瞳にも、昨日までの確かな日常の記憶が光となって戻ってきた。
『…見事だ、賢人君』
メインモニターのノイズの向こうで、有坂のAIゴーストが歪んで笑みを浮かべた。
『だが、君は忘れていないか?記憶を復元するということは、君が最も消し去りたかった「あの日の絶望」もまた、完全に蘇るということだ』
画面に映し出されたのは、10年前のあの夜。姉・真理が亡くなった、あの研究所の爆発事故の「未公開データ」だった。
「なっ……何。これ……」エラが息を呑む。
流出したセキュリティーに記録されていたのは、事故の瞬間、激しく火花を散らす実験装置のすぐ後ろに立っていた「ある人物」の姿だった。それは有坂でもなく、当時の研究員でもない。
「嘘、だろ…」常に冷静沈着な椎名の顔から、完全に血の気が引いていく。そこに映っていたのは、当時まだ少年だった、椎名賢人自身の姿だった。そして、彼の右手は、真理の実験装置の「緊急停止レバー」ではなく、「暴走スイッチ」にしっかりと掛けられていたのだ。
『さあ、思い出せ、賢人君。お姉さんを殺したのは、本当に私(有坂)かな?』
有坂の亡霊が、暗闇の中から嘲笑う。
「違う…僕は、姉さんを…助けようとして…!」
椎名は頭を抱えてその場に崩れ落ちた。取り戻したはずの記憶の激流が、彼の鉄壁の論理を内側から破壊し尽くそうとしていた。
臨界のクオリア第二部【後編】—忘却のエントロピー(ゴースト・イン・データ)に続く
