『螺旋の檻(らせんのおり)と、選ばれなかった未来』
「陽菜(ひな)さん、君の『冒険心スコア』は、最下位5%だよ。無理にプロジェクトリーダーを引き受ける必要はない。DNAに逆らうのは、川を遡って泳ぐようなものだからね」
上司が差し出したタブレットには、最新の遺伝子解析サービス『GENE-CHECK』の結果が冷酷なグラフとなって表示されていた。
陽菜は、山形にある歴史博物館で働学芸員だ。新しい企画展示のリーダー候補に挙がっていたが、自身の「慎重しすぎる性格」が遺伝子のせいだと突きつけられ、足がすくんでいた。
陽菜の父もまた、内気で変化を嫌う人だった。彼はいつも「俺たちはこういう血筋なんだ」と笑っていた。
(私の人生は、生まれた瞬間に書かれた4種類の文字—A、G、C、Tの配列で、もう結果が決まっているの?)
閉館後の静かな展示室。陽菜は、人類の進化コーナーにある「ネアンデルタール人とホモ・サピエンス」の骨格標本の前に立っていた。
「……彼らも、遺伝子に縛られていたのかな」
「彼らは、君が思っているよりずっと自由だったかもしれないよ」
振り返ると、同僚の保科(ほしな)がいた。彼は進化生物学をこよなく愛する、少し変わり者の研究員だ。
「ネアンデルタール人は、僕らサピエンスより脳が大きく、筋力も強かった。でも、滅びた。一方で、ひ弱なサピエンスは生き残り、世界中に広がった。その違いの一つは、環境の変化に『どう反応するか』という遺伝子のスイッチの切り替えにあったと言われているんだ」
保科は、陽菜のタブレットをチラリと見て続けた。
「陽菜さん、DNAは『設計図』だけど、『命令書』じゃない。最近の研究では、エピジェネティックスという分野が注目されている。たとえ同じ設計図を持っていても、どんな環境で、どんな経験をするかによって、その遺伝子のスイッチが『ON』になるか『OFF』になるかが変わるんだ」
「スイッチ……?」
「そう。例えるなら、DNAは『楽譜』だ。でも、それをどう演奏するか、どの音を強く弾くかは、演奏者である『君自身の生き方』が決める。楽譜に『静かな曲』と書いてあっても、君が力強く弾けば、それは情熱的な名曲になるんだ」
保科は展示さているDNAの模型を指差した。
「ネアンデルタール人の遺伝子は、今も僕たちの中に数パーセント受け継がれている。かつて異なる種が交わり、新しい可能性を探った証拠だ。もし彼らが遺伝子通りの運命しか辿れかったら、僕らは今ここにはいない」
陽菜は、自分の中に流れる果てしない時間の連なりを感じた。数万年前の祖先から受け継いだ螺旋の鎖。それは、自分を閉じ込める「檻」ではなく、ここまで命を繋いできた「道」なのだ。
「……私、やっぱりリーダーをやってみます。私の楽譜には『慎重』と書いてあるのかもしれないけれど、それを『細やかな配慮ができる』という音色に変えて演奏してみたいから」
翌日、陽菜は上司の部屋のドアを叩いた。
背中を丸めて歩く癖はやめた。DNAがどう言おうと、今の彼女の心には、新しい未来のスイッチを「ON」にする熱い電流が流れていた。
【科学解説:遺伝子は「運命」ではない?】
私たちの体や性格のベースを作るDNA。しかし、近年の科学は「遺伝子がすべて」という考え方を塗り替えつつあります。
1. 遺伝子のスイッチ「エピジェネティックス」
物語に登場したエピジェネティックスは、現代生物学の最前線です。DNA配列そのものは変わらなくても、後天的な環境(食事、ストレス、運動、人間関係など)によって、特定の遺伝子の働きが強まったら、抑えられたりすることが分かってきました。
2.サピエンスとネアンデルタール人
私たちホモ・サピエンスのDNAの中には、数万年前に混血したネアンデルタール人の遺伝子が1~4%ほど混ざっています。
かつては「野蛮で滅びた種」と思われていた彼らですが、実は高度な文化を持ち、私たちに「免疫力」や「環境適応力」を分け与えてくれた恩人でもあったのです。
3.才能と努力のチームワーク
「運動神経」や「数学的才能」に関連する遺伝子は確かに存在します。しかし、それを持っているだけではプロになれるわけではありません。適切なトレーニングや環境という「刺激」がなければ、その遺伝子のスイッチは眠ったままなのです。
遺伝子は人生の「スタート地点」をきめますが、「ゴール」を決めるのは、環境との相互作用と、あなたの自身の選択なのです。
