科学小説『メフィストフェレスの計算』

第3章:過去と未来の衝突

第7話:『乱数列の数学的構造とカオス理論』

【暗号の解析の着手】

椎名は、実行犯である白石悠馬のPCから回収された、何の変哲もないテキストファイルに集中していた。そこには、数千行にわたるランダムな数字の羅列、いわゆる「乱数列」が記録されていた。

「警察はこれを、単なる研究データのノイズか、あるは意味のないデータと判断して、重要視していない」と御子柴は言った。

「彼らが正しい、これは真の乱数であれば、何の価値もない」椎名はモニターを睨みつける。「だが、メフィストフェレスが残したものは違う。これは『ある物理定数に基づいた数学的規則』で生成されている。言い換えれば、これは疑似乱数、つまり暗号だ」

【科学解説:カオス理論とローレンツアトラクター】

「一般的な暗号は、素因数分解などの計算量の多さに頼っています。しかし、これはより巧妙だ。これは、カオス理論に基づいている」

椎名はホワイトボードに、複雑な蝶のような図形を描き始めた。

             

「これは、気象学者エドワード・ローレンツが考案したローレンツ方程式です。わずかな初期値の違いが、時間経過とともに予測不可能な巨大な差異を生むという、『バタフライ効果』の理論的基礎です。彼の発見は、気象予想の限界を示しましたが、同時に、自然現象が持つ『複雑だが決定論』的な構造を明らかにした」

「メフィストフェレスは、このカオス的な法則を応用して、この乱数列を生成した。彼らは、ローレンツアトラクターのような複雑なシステムが生成する数列を使い、その初期値、あるいはシード値(種)として、特定の物理定数を用いたに違いない」

「物理定数?」

「はい。例えばプランク定数、光速、あるいは黄金比など、宇宙の根源をなす不変の数値です。これらの定数を知らなければ、数列をいくら分析しても、暗号の規則性は見破れません」

【シード値の発見】

椎名は、様々な物理定数をシード値として仮定し、乱数列のパターンと照合する作業を続けた。彼の超人的な計算速度と、過去の膨大な知識がこの時、結実した。

そして、夜が明ける直前椎名のPCの画面に、規則的なパターンが浮かび上がった。

「見つけた。シード値は、『コッホ曲線のフラクタル次元』の近似値と、橘氏が開発していた超耐久性プラスチックの『結合光子のボンド長(結合距離)』の組み合わせだ」

御子柴は愕然とした。単なる乱数列が、数学の概念と特定の化学データの二重構造で暗号化されているのだ。

「この暗号が示すものは何ですか?」

「これは、次の取引の場所と時間、そして新しい標的を示すメッセージです。乱数列を解読した結果、導き出されたのは、場所:『廃墟となった精密機器工場の地下』、そして時間:『今夜23時11分』。そして、次の標的は、『超高速量子コンピューティング』の特許を持つ、ある大学の研究チームです」

【メフィストフェレスの目的】

メフィストフェレスの真の目的が明らかになってきた。彼らは、「科学の未来」を売買しようとしている。

「奴らは、世界を根本から変える可能性がある、最先端の技術を掌握しようとしている。特許を買い叩き、あるいは殺人で奪い取り、科学の進化そのものを裏側からコントロールしようとしている」

椎名の静かな怒りが、部屋の空気を震わせた。彼は、天才科学者として、この傲慢な「法則の悪用」を許すわけにはいかなかった。

「私が行く。彼らが、私の『計算』を超えることができないと証明しなくては」

椎名は立ち上がり、ジャケットの裏に隠していた、極秘に改造した高性能電磁波測定器を取り出した。「サラリーマン」という仮面は、今、完全に剥がれ落ちていた。

第8話:『カオス理論の衝突と過去の影』

【潜入と警戒】

夜23時。椎名研人と御子柴梓は、暗号が示した廃墟となった精密機器工場の地下へと潜入した。錆びた配管が剝き出しになった広い空間に、たった一つの光源、強力な作業用ライトが煌々と照らされている。その下には、数人の人物が立っていた。

彼らの中心にいるのは、標的である量子コンピューティングの研究チームのリーダー、五十嵐教授。そして、その教授を囲むように立っているのは、白石悠馬を含む数名のスーツ姿の男たち。彼らの表情は冷たく、明らかに五十嵐教授を脅迫している状況だった。

「やはり、彼らは特許を奪うために、教授をここに誘いだしたんだ」と御子柴は声を潜めた。

「違います」椎名は、隠し持った電磁波測定器のディスプレイに目を落とした。「彼らの目的は特許そのものではない。彼らが求めているのは、量子コンピューティングの『コア技術』、つまり、まだ文書化されていない不安定な理論です」

測定器の数値が激しく上下している。

「この地下室は、強力な電波干渉をうけている。まるで、大規模なデータ転送が行われているようだ。彼らはここで、教授の頭脳にある情報をすべて吸い出そうとしている」

【メフィストフェレスの使者】

そのとき、スーツ姿の男の一人が口を開いた。彼の声には、奇妙な合成音声のような響きがあった。

「五十嵐教授。あなたの研究は素晴らしい。しかし、人類には早すぎる。我々、メフィストフェレスこそが、その知識を正しく管理し、未来へ導く存在だ。データを提供すれば、あなたとご家族の安全は保障される」

白石悠馬が、教授の顔に青ざめた表情で、小さなデータ転送装置を突きつけた。

椎名は、その合成音声の男の顔を見て、一瞬、全身の血液が凍るのを感じた。

「あの男…」

その男の顔には、椎名がかつて所属していた研究所の、ロゴマークと似た形状のタトゥーが刻まれていた。その研究所は、椎名が科学界から姿を消すきっかけとなった、「禁断の理論」を研究していた場所だった。

【科学の衝突と崩壊】

椎名は隠れ場所から飛びだし、測定器を構えた。

「その『管理』は、科学の自由に対する冒涜だ!あなたの乱数列は解読済みだ。ローレンツアトラクターの不安定性を応用した暗号化だが、シード値がコッホ曲線の次元P-237のボンド長という、極めて個人的なデータに基づいていたのがミスだ!」

合成音声の男は、椎名を見て微動だにしなかった。その目は、まるで実験動物を見るかのように冷淡だった。

「驚いた。椎名研人。やはり、君だったか。君の計算能力は、カオスの予測を上回る。だが、君はなぜ、その才能を簿記なんかに使っている?」

男は、椎名の過去を知っていた。そして、その言葉で、御子柴は椎名の正体が単なる天才ではないことを完全に悟った。

「君も知っているはずだ、真の知識は、無秩序な世界に流出するべきではない。それは。それは破滅を招く」

椎名は、測定器の出力を最大にした。

「破滅を招くのは、知識そのものではなく、それを独占しようとする傲慢さだ。私は、あなたのデータ転送を停止させる!」

椎名が操作したのは、合成音声の男が首に装着している音声変調器と、白石が持っているデータ転送装置が通信に使用している、特定の共振周波数だった。

【科学解説:周波数共振の破壊的応用】

「あなたは、量子情報の転送に、特定の共振周波数を使っている。その周波数は、極めて狭い帯域でのみ高効率なデータ転送を可能にするが、同時に、外部からの強力なノイズに極端に弱いという弱点を持つ!」

椎名が放ったのは、周波数帯域の許容量を遥かに超えるノイズの嵐。これは最初の事件で使われたジャマーの数千倍の出力を持つ、破壊的な電磁波だった。

ゴオオオッ!という耳障りなノイズが地下室を満たした、白石の持つ転送装置が火花を散らしてショートした。合成音声の男の変調器も停止し、彼の生の声が地下室に響き渡る。

「くそっ!やはり君は…『裏切り者』だ!」

データ転送は失敗に終わり、白石たちは混乱して撤退を始めた。椎名は彼らを追わず、合成音声の男の生の声に、ある違和感を覚えた。

「待て。今の声…ではない」

椎名が過去に知っていた「メフィストフェレス」の核心人物とは、別人だった。この男は、単なる『使者』。真の黒幕は、まだ影の中にいる。

【残された手掛かり】

五十嵐教授と研究チームを救出した後、椎名は合成音声の男が落としていったペンダントを拾い上げた。それは、銀色のアインシュタインの相対性理論の数式     (E=mc²)が刻まれた、何の変哲もないレプリカだった。

「相対性理論…メフィストフェレスが求めるのは、時間と空間すら支配する知識なのか?」

椎名の戦いは、まだ始まったばかりだった。彼の過去、そして科学の未来をかけた、「計算」の旅が続く。

第9話;『相対性理論のレプリカと量子もつれ』

【手がかりの分析】

地下室での衝突後、椎名研人は「使者」が落としていったアインシュタインの相対性理論の数式(E=mc²が刻まれたペンダントを詳細に分析した。

「ただのレプリカではありません。この金属には、ごく微量ですが、特定の超電導合金が使われている。そして、裏側には、非常に微細な傷がある」

椎名はデジタル顕微鏡でその傷を拡大し、すぐにそれが二進数法(バイナリコード)で刻まれたメッセージであることを見抜いた。

01010010 01100101 01100100 00100000 01000100 01110101 0111001 01110100

これを解読すると、”Red Dust”(赤い塵)という単語が浮かび上がった。

御子柴は首を傾げた。「赤い塵?新しい特許名ですか?」

「いいえ。これは、私が科学界から姿を消すきっかけとなった、過去のプロジェクトのコードネームです」椎名の声は低く沈んでいた。

【過去のトラウマ:「Red Dust」プロジェクト】

椎名が超有名大学院に在籍していた頃、彼はある非公式な極秘研究チームに所属していた。それが「Red Dust」プロジェクトだった。

「私たちは、『量子もつれ(Quantum Entanglement)』を応用し、超遠距離で瞬時に情報伝達を行う技術を研究していました。光速を超えることはできないが、情報が瞬時に相関する現象です」

【科学解説:量子もつれ】

量子もつれとは、二つの素粒子が一組となって結びつき、たとえ宇宙の果てに離れても、片方の粒子の状態(例:スピンの方向)を観察すれば、もう一方の粒子の状態が瞬時に決定する現象です。アインシュタインはこの現象を『不気味な遠隔操作』と呼びました 」

「『Red Dust』は、この原理を悪用し、人間の脳の情報を、遠隔地で瞬時にコピー・転送するための技術を開発しようとしていた。私には、その技術が人類の自由を根底から破壊すると感じられた。私はプロジェクトから離脱し、研究を破棄しようと試みた。しかし、その過程で…ある悲劇が起きました」

椎名は目を閉じ、その悲劇については深く語らなかった。だが、そのプロジェクトを推進していた中心人物こそが、真の「メフィストフェレス」であると確信した。

「奴らは、私の技術が『情報瞬時転送』という形で結実すると信じている。彼らが狙う『量子コンピューティング』は、その計算基盤となるものです。彼らは、知識を瞬時に独占し、世界を支配しようとしている」

【二つの相対性】

ペンダントに刻まれたE=mc²と、量子もつれという二つの科学原理は、「メフィストフェレス」の野望を示唆していた。

  • 相対性理論(E=mc²):宇宙における時間と空間の法則(質量とエネルギーの等価性、光速の限界)を支配する。
  • 量子もつれ:情報の瞬時性を扱い、相対性理論で規定された光速の壁を乗り越えるかのような錯覚を与える。

「『メフィストフェレス』の最終目標は相対性理論によって確立された宇宙の物理法則と、量子力学によって示唆された情報の絶対的な支配を、同時に手に入れることだ」

【次なる行動】

椎名は、自分の過去の技術が、現在進行形で悪用されようとしていることに強い責任を感じていた。

「『Red Dust』プロジェクトの機密データは、今も極秘のデータ貯蔵庫に残されているはずです。そこには、量子もつれを利用した転送システムの『欠陥(バグ)』に関する私の最終論文が保管されている。奴らは、その欠陥を知らずに、量子コンピューティングの技術を完成させようとしている」

「行きましょう。メフィストフェレスの真の目的を阻止するために、私の過去と決着をつけなくてはならない」

椎名研人は、天才科学者としての「魂」を取り戻し、科学の闇に立ち向かうことを決意した。彼の次の計算の舞台は、「Red Dust」の眠る、秘密の研究施設へと移る。

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