連載小説『喫茶ラプラスの科学処方』#8

喫茶ラプラスの科学処方

第8話:重たい腰と活性化エネルギー

「やりたい気持ちはずっとあるのに、どうしても最初の一歩が踏み出せないんです」

金曜日の夜。喫茶「ラプラス」のカウンター席で、真新しい万年筆と上質なノートを前にため息をついたのは、ウェブライターを夢見る会社員の美波(みなみ)だった。

カウンターの向こう側で、マスターの来栖は静かにコーヒー豆を挽きながら耳を傾ける。

「せっかく道具も揃えたし、各テーマも頭の中にあるんです。でも、いざ、机に向かうと『うまく書けなかったらどうしよう』とか『すごく時間がかかるぞ』とか、いろんな言い訳が浮かんできて…結局、スマートフォンをいじって一日が終わるんです。

私って、本当に怠け者ですよね」

「怠け者ではありませんよ、美波さん」来栖は挽きたての粉をドリッパーにセットし、静かにお湯を注ぎはじめた。

「それはあなたの心が弱いからではなく、化学反応における『活性かエネルギーの壁』にぶつかっているだけです」

「かっせいか、エネルギー」

「ええ。たとえば、目の前に燃えやすい薪(まき)があるとします。薪は燃えればたくさんの熱と光(エネルギー)を出しますが、ただ置いておくだけでは絶対に燃えませんよね。燃やし始めるためには、マッチで火をつけるという『最初のきっかけとなる熱』が必要です。この、反応をスタートさせるために必要な最初のエネルギーの壁を、化学の世界では『活性化エネルギー』と呼びます」

来栖は抽出されたコーヒーをカップに注ぎ、美波の前に置いた。

「人間の行動も全く同じです。一度書き始めてしまえば、あとはスラスラと筆が進んで楽しい時間をすごせる(エネルギーが放出される)と分かっていても、その『最初の1文字を書く』というスタート地点には、莫大な活性化エネルギーが必要なんです。美波さんが重たい腰を上げられないのは、化学的に見ればごく自然な現象なんですよ」

美波はノートの上に乗せた自分の手をじっと見つめた。「…スタートする時が、一番エネルギーを使うんですね。でも、それならどうやってその高い壁を乗り越えればいいんでしょうか?やっぱり、気合と根性ですか?」

「いいえ。化学者たちは、気合ではなく、『触媒(しょくばい)』を使います」

来栖は微笑みながら、小さなミルクピッチャーを美波に差し出した。

「触媒とは、自分は変化せずに、化学反応の『活性化エネルギーの壁』をグッと低くしてくれる魔法のような物質です。日常の行動においてこの触媒となるのは、『ハードルを極限まで下げること』や『環境を変えること』です。たとえば『今日は1ページ書く』ではなく『ノートを開いて日付だけ書く』にする。あるいは、家にいるとスマホを見てしまうなら『お気に入りの喫茶店に行く』のも立派な触媒です」

美波はハッとして、目の前のノートと、居心地の良いラプラスの店内を交互に見渡した。

「そっか…。私、いきなり完璧な作品を書こうとして、自分で壁を高くしていたんですね。ノートを開いて、美味しいコーヒーを飲む。それくらいなら、今の私にもできそうです」

「ええ。最初の壁さえ越えてしまえば、あとは自然に反応が進みますよ」

美波は万年筆のキャップを外し、まっさらなノートの1ページ目に、今日の日付をゆっくりと書き込んだ。その表情にはもう迷いはなく、新しい物語が始まる静かな熱だけが灯っていた。

(つづく)

今夜の処方箋:科学の小部屋

~「始められない」のは化学のせい?活性化エネルギーと触媒の魔法~

物語の中でマスターが語っていた「活性化エネルギー」と「触媒」。新しいことを始める時に「腰が重い」と感じるのは、決してあなたが怠け者だからではありません。そこには化学反応と同じように、最初に越えなければならない「見えない山」が存在するからです。

当ブログのこちらの記事では、なぜ化学反応には「きっかけ」が必要なのかを分かりやすく解説しています。反応を起こすためのパワーである「活性化エネルギー(山の高さ)」と、その山にトンネを開通させて反応をラクにしてくれる魔法のアイテム「触媒」の基本から、私たちの身の回りにある身近な触媒の例までを楽しく学べる内容です。

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