第1話:バタフライ・エフェクト
「…山形県、月山周辺で局所的な線状降水帯が発生。なお、この豪雨による土砂崩れで、大手クラウド事業者『アーク・ストレージ』の東北第3データセンターが物理的に崩落しました――」
初夏の生ぬるい風が吹き抜ける研究室で、テレビのニュースキャスターが淡々と淡水色の画面の向こうから告げていた。
「また、データセンター…。今月に入ってこれで3件目よ」エラ・ヴァンスが、苦いコーヒーを喉に流し込みながらタブレットを椎名賢人の前に差し出した。「落雷、突風、そして今回は局所的な豪雨。どれも気象庁のスーパーコンピューターが予測できなかった、文字通りの『局所的なカオス』。そして被害に遭っているのは、すべて10年前のあの事故のデータを分散保持していた企業のサーバーよ」
椎名は、大手IT企業の社員バッチを無雑作にデスクに放り出し、画面の気象データを凝視していた。その瞳は、いつもの天才サラリーマンの冷徹さを湛えているが、奥底には消えない炎が灯っている。
「単なる異常気象じゃない。誰かが意図的に、大気の初期値に微小なノイズを混入させ、特定の場所に気象災害を『誘導』している。カオス理論におけるバタフライ・エフェクトの人工的な制御…。有坂のAIゴースト以上の代物が裏で動いているな」
「お兄ちゃん、大変!大変なことが起きてる!」バン、と研究室のドアを派手に開けて飛び込んできたのは、息を切らせた のあ だった。
「どうしたの、のあ。そんなに慌てて」エラが宥めるが、のあが差し出したスマートフォンの画面を見て、全員の動きが止まった。
画面に表示されていたのは、椎名が運営する科学ブログ「slabo」の管理画面だった。
「私、新しい記事の校正を手伝おうと思って開いたの。そしたら…私、こんな記事、知らないよ⁉」
そこには、椎名が執筆した覚えのない『未来予言の投稿』が存在していた。
『――5月15日22時49分、月山データセンター崩落。失われた過去の特許データは、10年前の観測者を完全なる空白へと誘う』
「投稿時間は、3日前…。タイムスタンプの偽装じゃない。サーバーのルート権限ごと、完全に外部から書き換えられている」
椎名の指がキーボードの上を弾丸のように走り、アクセスログを解析する。
「僕のセキュリティーを突破して、slabo を予言の掲示板代わりに使っている奴がいる。いや、これは『警告』か」
「失礼するよ。椎名賢人くん、だね?」
その時、研究室の入り口に、冷え切った声が響いた。仕立ての良い高級スーツを纏い、白髪混じりの紙を几帳面に整えた男が立っていた。その胸元には、国際特許庁のバッチが鈍く光っている。
「私は神楽坂薫。国際特許庁のシニア監査官だ」男は、手にした革の書類鞄から、一枚の古い登記簿のコピーを椎名のデスクに滑らせた。「君が務めるIT企業への監査の過程で、少々興味深い『バグ』を見つけてね。10年前の真理氏の研究所爆発事故…あの場所には、有坂、真理、そして少年時代の君の他に、登記されていない『4人目の人間』がいた。その人物の抹消された特許データが、今、世界中のデータセンターごと物理的に消去されている」
神楽坂は眼鏡の奥の目を細め、椎名を品定めするように見つめた。「君のブログの『予言』通りにね。椎名くん、君は一体、何を隠している?」
その時、椎名の背後で、パソコンの画面が静かに明滅した。『比嘉瑠菜から着信』
椎名の会社の後輩であり、いつも彼を「椎名先輩、またシステムのエラーですか—?」と頼ってきていたはずの、あの平凡なサラリーマンからの緊急連絡だった。
複雑に絡み合う気象の暴走、勝手に更新されるslabo、そして10年前の「4人目の生存者」。すべての初期値が狂い始めた世界で、新たな境界線が姿を現わそうとしていた。
第2話:初期値の境界(バタフライ・エフェクト)
「椎名先輩!大変です、今すぐ会社から離れてください!」
スマートフォンから響いた比嘉瑠菜の声は、普段ののんびりした彼女のものとは完全に違っていた。背後からは、凄まじいサーバーの冷却ファンの音と、パトカーのサイレンのような警告音が聞こえる。
「比嘉、落ち着け。何がおきている?」椎名は神楽坂の視線を遮るように背を向け、冷徹な声で問いかけた。
「先輩のアカウントがハッキングされて、本社のメインフレームから『国家級の未公開特許データ』が外部に流出しかけてるんです!上層部は先輩を産業スパイだと断定して、セキュリティーを動かしました。もうそっちに向かっています!」
「…そうか。僕がスパイ、ね。ありきたりなロジックだ」椎名はフッと冷たい笑みを浮かべ、通話を切った。
「お兄ちゃん、スパイってどういうこと⁉」のあが 顔を真っ青にして椎名の袖を掴む。
「私の見立て通りというわけだ」国際特許庁の監査官・神楽坂は、メガネの奥の目奥をギラリと光らせた。「椎名くん、君のアカウントから流出しようとしているデータこそが、10年前の事故の『4人目の生存者』――一ノ瀬蓮(いちのせれん)に関する特許情報だ」
「一ノ瀬、蓮…」エラがその名を反芻する。「カオス理論を気象制御に応用しようとして、学会を追放された天才データサイエンティストね。まさか、世界中のデータを襲っている『局所的な異常気象』は、彼の仕業なの⁉」
「その通り」神楽坂は不敵に微笑む。「彼は10年前、君の姉である真理氏の研究を横取りしようとして事故を引き起こした。そして今、自分の過去のデータを完全に消去するため、気象をハックして物理的にサーバーを破壊して回っている。…椎名くん、君が一ノ瀬と繋がっているのではないなら、今すぐ私と来てもらおうか」
研究室の外から、ドタドタと複数の足音が近づいてくる。本社のセキュリティーチームだ。
「賢人、どうするの⁉このままじゃあなた、身代わり(バグ)にされるわよ!」エラが焦りの表情を浮かべる。
椎名は静かに目を閉じ、脳内で『slab』の偽予言記事、比嘉からの密告、神楽坂の提示した書類、そして一ノ瀬蓮という名前を一本の線で繋ぎ合わせた。
「…のあ、エラ。荷物をまとめろ。ここを出る」
「えっ、でも外には警備の人が!」のあが声を上げる。
「神楽坂さん、あなたの論理には一つだけ致命的なエラーがある」椎名はコートを羽織りながら、監査官を真っ直ぐに見据えた。「一ノ瀬蓮が過去を消したがっているなら、なぜ僕のブログ『slabo』に、わざわざ次の犯行予告を書き残す必要がある?
これは犯行予告じゃない。…僕たちを、本当の『初期値(月山)』へ誘いだすための、何者かのナビゲーションだ」
椎名がデスクの隠しスイッチを押した瞬間、研究室のプロジェクターから強烈なフラッシュ光が炸裂した。神楽坂が思わず目を瞑った隙に、椎名は二人の手を引き、非常口へと駆け出す。
「比嘉、すまないがもう一つだけ『現場の残業』に付き合ってもらうぞ」椎名は走りながら、再びスマートフォンにコマンドを打ち込んだ。
追うセキュリティ、迫るカオスの気象兵器、そして姿をみ見せない「4人目の男」。すべてのピースが激しく衝突しながら、舞台は山形県・月山の奥深くへと引きずり込まれていく。
臨界のクオリア第三部【前編】―バタフライ・カオス(初期値鋭敏性の罠)― 完
次回はこちら 🔗臨界のクオリア第三部【後編】
賢人たちが挑む「バタフライ・エフェクト」とは?
作中で一ノ瀬がりようする「カオス理論」。ブラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起きる…?
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