第1話:量子の迷宮の観測者

天才サラリーマン椎名賢人の事件簿第2部

警視庁捜査一課、特別応接室

デスクの上に並べられたのは、先端医療研究所で起きた「記憶とクオリア(感覚)の消失事件」に関する不気味な捜査資料だった。被害者の脳にも身体にも一切外傷はなく、ただ記憶と意識だけが別の過去へと書き換えられた上で息絶えている。

鑑識もサイバー犯罪対策課も「科学的には説明がつかない」と頭を抱える中、洗練されたダークグレーのロングコートを羽織った藤堂玲香警部が、不敵で魅惑的な笑みを浮かべた。

「上はお手上げのようね。…さて、次は『あの方たち』の知恵を借りに行くとしましょうか」

雑居ビルにある『slabo(エスラボ)』の事務所には、変わらない温かな朝の風景が広がっていた。

「賢人兄ちゃん!コーヒーの豆、いつもの深煎りでよかったよね?」

のあが給湯スペースから焼き立てのトーストとコーヒーを運び、賢人はデスクで静かに手帳へ目を通している。

「ああ、ありがとう、のあ。その方が思考のギアが上がる」

部屋の壁際、マルチモニターが並ぶ専用デスクでは、成長した比嘉瑠菜(25)が凄まじい手つきでキーボードを叩いていた。かつて新入社員だった頃の面影をのこしつつも、その指さばきは洗練を極めている。

カタカタカタカタ、ターン—!

「よしっ…!社外スパコンの分散処理用ポート、確保完了です!賢人先輩、いつでも暗号化ファイルの展開いけますっ!」

「素晴らしい手際だよ、比嘉さん。君の成長にはいつも驚かされる」

「えへへ…賢人先輩にそう言っていただけると嬉しいですっ!」

照れる比嘉の横で、カフェスペースに立つ東洋的な美女—エラ・ヴァンスが、静かに紅茶の茶葉を選んでいた。深みのあるアッサムの香りが部屋に広がる。

「ふふ、比嘉ちゃんのタイピング音、まるで心地よい音楽のようね」

カツン、カツン、カツン——

その時、階段から響く力強いヒール音。

扉が開き、藤堂が静かに足を踏み入れてきた。コートの裾をなびかせ、部屋のメンバーを見渡す。

また、あなたたちの知恵を借りに来たわよ

藤堂のその一言を合図に、賢人はペンを置き、比嘉はノートPCを抱えて立ち上がり、エラは淹れたてのティーポットを手にする。

それぞれの作業スペースにいた全員が、吸い寄せられるように中央の大きな木製の「丸テーブル」へと集結した

藤堂はコートのポケットから捜査用タブレットを取り出し、丸テーブルの中央にすっと滑らせた。画面には、事件現場の写真と、不可解な脳波ログが映し出されている。

「今度の事件は、ただの殺人やデータ強奪じゃないわ。…被害者は先端医療研究所の首席研究員。密室の実験室で座ったまま息絶えていたのだけど、身体にも脳にも一切の外傷はなかったの」

「外傷がない…心不全か何かですか?」比嘉が丸テーブルのタブレットを覗き込む。

「ええ、死因は心不全よ。だが…彼のデスクに残された手記とPCのログ、そして本人の直前の脳波データには、『自分は10年前に研究所を辞め、別の人生を歩んでいたというありえない記憶が記録されていたわ。本人の記憶とクオリアだけが、丸ごと『存在しない過去』に書き換えられていたのよ」

「記憶とクオリアの書き換え…⁉」比嘉が息をのむ。

「ええ。そして現場に残されていたのは、この謎の脳波ログと、微小な量子もつれを示す波形データよ」

賢人が静かに頷き、スマホを比嘉のノートPCに同調させた。

「比嘉さん。現場の量子波形データと脳波ログを、君の最新アルゴリズムで多次元展開してみてくれるかい?

「はいっ、任せてくださいっ!」

丸テーブル上で比嘉の指が爆速で駆け巡る。数秒もしないうちに。モニター上に複雑な多重量子波形と脳回路のモデルが組み上がっていった。

その画面を凝視していたエラが、東洋的な深い瞳を微かに細め、静かに口を開いた。

「…やはり、これは『量子生物学』の領域に踏み込んだ犯罪ね」

「量子生物学…ですか、エラさん?」

比嘉が振り返ると、エラは全員の前に温かいアッサムティーを差し出しながら、静かな声で語り始めた。

人間の意識や、体験の中にある『言葉では完全には伝わらない質感』…いわゆる『クオリア』は、脳内の微小管(マイクロチュール)における『量子的重ね合わせ』によって生み出されている説(Orch-OR理論)があるの。…もし犯人が、観測者の意識介入によって脳内の量子状態を外部から操作し、記憶の因果律そのものを『書き換えた』ように見せかけているのだとしたら…」

「なるほど」

賢人が眼鏡のブリッジをスッと押し上げ、不敵な笑みを浮かべた。

「過去が実際に書き換わったのではない。『そう観測せざる得ない罠』が仕掛けられているだけだ。…チームslaboの力、お部見せしましょう。

-第1話:量子迷宮の観測者――完――

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【作中に登場した用語の解説】

物語の中で賢人たちが解説していた「量子生物学」や「Orch-OR理論」について、さらに詳しく知りたい方はこちらの解説記事も併せてお読みください。

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