特別編3:天才物理学者と量子もつれの夜
一
深夜零時を回った頃。看板の明かりが落とされた喫茶「ラプラス」のドアを、ためらいなく開けて入ってきた長身の男がいた。
「…もう閉店(クローズ)の時間ですよ」カウンターでエスプレッソマシンの手入れをしていた来栖は、顔を上げずに言った。
「知っています。だが、MIT(マサチューセッツ工科大)時代、深夜のラボで徹夜明けの僕にひどい泥水のようなコーヒーを飲ませてくれた先輩なら、後輩のために一杯くらい淹れてくれるだとおもいましてね」
来栖は手を止め、苦笑しながら顔を上げた。そこに立っていたのは、端正な顔立ちに冷静な知性を宿した男——日本の科学メーカーで働く天才物理学者、浅倉連(あさくら・れん)だった。
「口の減らない後輩だ。…相変わらず、世界のすべてを数式で解き明かせるような顔をしていますね、浅倉」
「少なくとも、人間の感情よりは数式の方がよほど信頼できますから」
蓮は迷わずカウンターの中央に座ると、来栖が差し出した深煎りのブラックコーヒーを静かに口に運んだ。
二
「で?あの浅倉蓮が、わざわざこんな日本の片隅の喫茶店まで足をはこんだんです。よほど解けない『バグ』でも抱えているんでしょう」
来栖の問いに、蓮はわずかに眉間を寄せた。「バグだらけですよ。僕が今いる環境は。非論理的な同僚たちに、確率論を無視して突っ走る相棒(御子柴)。おまけに、情報を食い物にしてカオスを盤面で操る、あの厄介なサラリーマン(椎名)までいる。…なぜ僕が、あんな予測不能な人間たちの変数に振り回されているのか、自分でも合理的ではないと感じているんです」
「なるほど」来栖はカウンターに両肘をつき、楽しそうにわたった。「完璧な決定論(古典物理学)を愛するあなたにとって、人間の行動は不確定要素(ノイズ)の塊ですからね」
「ええ。アカデミアの静かなラボにいれば、こんなノイズに悩まされることもなかった」蓮はカップを見つめ、自嘲気味に息を吐いた。
「ですが浅倉。あなたが今さら『決定論』の世界に戻れるとは、私には到底思えませんがね」来栖の言葉に、蓮の鋭い視線がマスターを射抜いた。
「量子力学の世界には、『量子もつれ(エンタングルメント)』という現象がありますよね。一度強く相互作用した二つの粒子は、その後どれだけ遠く離れても、見えない糸で結ばれたように状態を共有する。片方の状態が観測されて確定した瞬間、もう片方の状態も瞬時に決まる。アインシュタインが『不気味な遠隔作用』とよんで嫌悪した現象です」
来栖は、連の隣にもう一つの空のカップをそっと並べた。
三
「あなたはもう、彼らと『もつれ』てしまったんですよ」来栖は静かに告げた。
「あの暑苦しい相棒や、厄介なサラリーマンと深く関わり、同じ事件という空間で相互作用を起こしてしまった。だから、彼たが動けばあなたも瞬時に影響を受けるし、あなたが論理の答えを出せば、彼らもそれに呼応して動く。…もはや、独立した一つの粒子(個人)として、孤立したラボに戻ることなんて不可能です」
蓮は並べられた二つのカップをじっと見つめた。不確定で、非合理的。だが、彼らが動くことで確定する『世界』は、一人で計算式と睨み合っていた頃よりも、はるかに鮮やかでダイナミックだった。
「量子もつれ、ですか。先輩は相変わらず、物理の法則をポエムにするのがお上手だ」蓮はふっと肩の力を抜き、わずかに口角を上げた。
「ですが、悪くない理論です。彼らとの『もつれ』が続く限りは、この不条理な世界で観測を続けてみるのも悪くない」
「それは何よりです。優秀な観測者がいなければ、シュレーディンガーの猫は永遠に生死の箱の中ですからね」
蓮は最後の一口を飲み干し、静かに席を立った。「コーヒーごちそうさまでした。…あの頃の泥水よりは、いくらかマシな味になっていましたよ」
「それはどうも。またいつでも、もつれを解きに来てください」
ドアのベルがカランと鳴り、天才物理学者は夜の街へと消えていった。後に残された来栖は、片付けかけたエスプレッソマシンを眺めながら、かつて共に真理を追求した後輩の背中に、静かなエールを送っていた。
(特別編3・完)
―――今夜の処方箋:コラボレーション特別編3―――
今回の特別編は、当ブログの科学小説『凪のスペクトル』で活躍する天才物理学者・浅倉連が登場。実は、マスター来栖のMIT時代の後輩だったという裏設定が明かされました。物語の中で語られた「量子もつれ」は、現在の物理学でも完全には解明されていない宇宙の神秘です。人間関係の目に見えない繋がりを、量子力学の視点から覗いてみるのも面白いかもしれませんね。
浅倉蓮が難事件を科学で解き明かす本編も、あわせてお楽しみください!
【本編はこちら】凪のスペクトル—窓際社員の超思考―


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