第9話:引き止める重力と、第一宇宙速度
一
「やっぱり、断ろうかな」
木曜日の夜。喫茶「ラプラス」のカウンター席で、スマートフォンに映る『採用通知』のメールを見つめながら、20代の青年・翔太(しょうた)は深くため息をついた。
マスターの来栖は、棚から美しい瑠璃色のカップを取り出しながら静かに尋ねる。「ずっと目標にしていた、東京の企業からの内定ですよね。なぜ迷っているんですか?」
「いざ決まると、急に足がすくんでしまって。今の仕事も人間関係は悪くないし、地元は居心地がいい。それに比べて、誰も知らない新しい街で本当にやっていけるのか…。そう考えたら、なんだか見えない鎖で足を引っ張られているみたいに、体が重く感じるんです」
翔太はスマホを伏せ、両手で頬を覆った。「僕って、やっぱり挑戦する器じゃないのかもしれません」
来栖は瑠璃色のカップに、星空のように澄んだ深煎りコーヒーを注いだ。「翔太さん。あなたの体が重く感じるのは、器が小さいからではありません。あなたが今、『重力の底』から飛び立とうとしているからです」
「重力の、底…?」
二
「ええ。宇宙科学の話をしましょう」来栖はカウンターに両手をつき、翔太の目を見つめた。
「地球には強い重力があります。ロケットが宇宙へ飛び立つためには、この重力を振り切らなければなりません。地球の周りを回る軌道に乗るためには、秒速7.9キロメートルという途方もないスピードが必要です。これを『第一宇宙速度』と呼びます」
「秒速7.9キロ…想像もつかない速さですね」
「そうです。だからロケットは、機体の大部分に大量の燃料を積み込み、発射の瞬間に莫大なエネルギーを爆発させます。打ち上げの直後、宇宙飛行士の体には、強烈な重力(G)がのしかかる。それはもう、体がシートに押し潰されそうなほどの苦しみです」
来栖は、翔太の前にそっとコーヒーを差し出した。
「あなたが今感じている『足を引き止める重さ』や『不安』は、まさにこの発射直後のG(重力)です。長く留まった環境という星が大きくて居心地が良いほど、そこから引き離そうする重力は強烈に働きます。不安で体が重いのは、あなたが弱虫だからではありません。今の環境の重力を振り切って、新しい軌道に乗るための『第一宇宙速度』に到達しようと、必死にエンジンを吹かしている証拠なんですよ」
三
翔太は、ハッとして顔を上げた。「…僕が感じているこの重さは、飛ぼうとしているからこその、重さ…?」
「その通りです」来栖は優しく微笑んだ。「地上を歩いているだけの人は、重力の苦しみなんてかんじません
。。飛ぼうとする者だけが、その重さを知るんです。そして、一度第一宇宙速度に達して大気圏を抜けてしまえば、あとは無重力の軌道に乗って、驚くほど軽やかに飛び続けることができます」
翔太は瑠璃色のカップを手に取った。一口飲むと、爽やかな酸味とフルーティーな香りが、胸の奥のモヤモヤをすっきりと吹き飛ばしてくれた。
「…マスター。僕、宇宙飛行士の訓練だと思って、この重力に耐えてみます。第一宇宙速度に乗るまでは苦しいかもしれないけど、その先の景色を見てみたいから」
「ええ。あなたならきっと、素晴らしい軌道に乗れますよ。良い旅にならことを祈っています」
ラプラスの窓の外には、澄み切った夜空が広がっていた。翔太の目にはもう迷いはなく、見上げる星々の輝きが、少しだけ近くに感じられた。
(つづく)
―――今夜の処方箋:科学の小部屋―――
~飛び出す勇気はなぜ思い?ロケットを導く「第一宇宙速度」~
物語の中でマスターが語っていた「第一宇宙速度」。私たちが新しい環境へ飛び込もうとする時、強烈な不安や現状維持の引力に引き戻されそうになるのは、物理学的に見てもごく自然な「重力の法則」に似ています。
当ブログのこちらの記事では、宇宙科学の視点から、ロケットが地球の重力を振り切るメカニズム「第一宇宙速度」や「宇宙エレベーター」の構想について分かりやすく解説しています。新しいことに挑戦したいけれど一歩が踏み出せない時、ぜひ宇宙のスケールで勇気をチャージしてみてくださいね!
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