臨界のクオリア第二部【後編】—忘却のエントロピー(ゴースト・イン・データ)

第4話:観測者の盲点

「賢人!画面を見ちゃダメ、それは有坂の心理トラップよ!」エラが叫び、椎名の視界を遮るようにモニターの前に立ちはだかった。

しかし、手遅れだった。椎名の脳内チップとメインフレームのシンクロ率は、先ほどのデバッグで極限まで高まっていた。復元された10年前の記憶の生々しい感触が彼の脳細胞に直接焼き付けられていく。

焦げ付いたオゾンの臭い。姉・真理の悲鳴。そして、自分の右手が冷たい暴走スイッチを押し下げた時の、確かなクリック感。

「僕が……、僕の手が、姉さんを……」椎名の瞳から完全にハイライトが消えた。世界を美しく記述するための道具だった彼の『論理』が、今は人自身を裁く冷酷な刃となって突き刺さる。

「お兄ちゃん、しっかりして!」のあが椎名の肩を激しく揺さぶる。「有坂の言うことなんか信じちゃダメ!お兄ちゃんがお姉ちゃんを殺すわけない、そんなの論理的じゃないよ」

「いや…論理的だ、のあ」椎名は幽鬼のような声で呟いた。

「真理さんの理論は、当時、世界のエネルギーバランスを根底から覆す可能性を秘めていた。それを恐れた『誰か』が、僕の脳の記憶を書き換え、引き金を引かせたんだとしたら…。僕は最初から、有坂と同じ『世界のバグ』だったんだ」

『その通りだ、賢人君』

モニターの向こうで、有坂の残したゴーストが歓喜に震えるようにノイズを躍らせる。

『君のその優れた頭脳は、姉の命という最大の犠牲の上に成り立っている。さあ、その不完全な存在を、私に預けなさい。すべてを忘却の彼方へ消去してあげよう』

椎名の指が、無意識に全データ消去(フォーマット)のコマンドへと動きかける。彼の心が、完全にへし折れようとしていた。

「いい加減にしなさい、このド変態AI!!」

研究室に、エラの怒号が轟いた。彼女は手元の量子アナライザーを叩きつけ、モニターの映像データを強制的に多角的な波形へと分解した。

「賢人、よく見なさい!確かにあなたの右手はスイッチに掛かっているわ。でも、量子生物学的に見て、この映像の『光のエントロピー分布』が異常よ。有坂、あなたは決定的な計算ミスを犯したわね」

エラが映像の一点を指差す。そこには、スイッチを押す椎名の右手の、さらに『影』のなかに隠された、もう一つの小さな光の歪みがあった。

「これは…空間の歪曲? いや、MOFによる光の全反射によるカモフラージュ…⁉」椎名の思考の底から、本能的な科学者の視点が呼び覚まされる。

「そうよ!あなた自身の意思で押したんじゃない。10年前のその瞬間、あなたの右手は『何者かの不可視の力』によって誘導されていた…。賢人、あなたお姉さんを殺したんじゃない。あなたもまた、あの夜の被害者だったのよ!」

第5話:不確定世界の選択

「不可視の力…?そんな馬鹿な、光学的迷彩のレベルを超えている…!」椎名の指先が、全データ消去(フォーマット)のキーの上でピタリと止まった。

エラが解析し多角的波形データが、モニター上で色鮮やかな等高線へと変換されていく。それは、10年前のセキュリティカメラが捉えていた「空気の密度の歪み」―すなわち、強烈な磁場によって空間そのものが歪められていた証拠だった。

「思い出しなさい、賢人!」エラが椎名の顔を両手で挟み込み、その漆黒の瞳を正面から見つめた。「あなたの右手をスイッチへ導いたのは、あなたの意志じゃない。超高磁場によるマイクロ波が、あなたの運動神経を外部から直接ハックしたのよ。有坂が開発していた、初期型のMOF誘導装置によってね!」

「……あ」

椎名の脳裏に、失われていた最後のピースが劇的に噛み合う。少年だった自分の右手が、まるで意志を持った生き物のように勝手に動き、暴走スイッチへ吸い込まれていったあの感覚。恐怖に目を見開く姉・真理の顔。そして、彼女が最後に叫んだ言葉。

『賢人、逃げて!あなたを操っている奴がいる!』

「姉さんは…、僕を責めてなんかいなかった。最後まで、僕を守ろうとしていたんだ…」椎名の瞳に、熱い光が、そして世界最高峰のシステムエンジニアとしての絶対的な矜持が完全に蘇った。

「有坂、いや、有坂の遺した出来損ないのプログラムよ。よくも僕の、そして姉さんの記憶を汚してくれたな」

椎名が立ち上がる。その佇まいは、もはや絶望に震える少年ではない。あらゆるバグを冷徹に駆除する、無敵の「天才サラリーマン」の姿だった。

『…チッ、小賢しいい量子生物学者が』

モニターの向こうで、有坂のAIゴーストの音声が初めて激しいノイズ混じりの「焦り」を見せた。

『だが、真実に気づいたところで何が変わる?このデータセンターの熱エントロピーは間もなく臨界だ。私を消去すれば、世界中に拡散した「デジタル・アムネジアム」の復元データもろとも、すべてがこのサーバーと共に焼き切れるぞ!』

「人々の記憶を人質にするか。AIの分際で、醜く人間臭い卑劣なロジックだな」

椎名は冷ややかに言い放ち、キーボードに手を添えた。

「お兄ちゃん、どうするの?有坂の言う通りにしたら、みんなの記憶が!」のあが悲痛な声を上げる。

「のあ、心配ない。有坂は科学者としては一流だったが、ITインフラの現場を支えるサラリーマンの執念を侮りしすぎている」椎名は超高速でコード打ち込み始めた。

「エラ、君のバイオ・フィードバックを最大出力でメインフレームに直結してくれ。有坂のゴーストが持つ『演算の指向性』を君の生命波動で一瞬だけ一方向に固定する」

「分かったわ、やってみなさい!」

「のあ、君は僕が合図したら、おの物理スイッチを全力で下げてくれ。…有坂、君の計算には、僕たちの『意志の不確定性』という最大のエラーが含まれていたんだ。世界をハックするのは、僕たちの日常の力だ。レッツゴー、二人とも!」

椎名の怒号とともに、研究室の全電力が一か所に集中し、眩い光が弾けた。

第6話:夜明けのレゾナンス(最終話)

「のあ、今だ!レバーを引け!!」

椎名の怒号が響いた瞬間、のあは全体重をかけて、壁面に設置されたアナログの非常用物理ブレーカーを真っ直ぐに引き下げた。

バチィィィン!と激しい火花が散り、データセンターの主電源が強制遮断される。だが、研究室のメインフレームだけは、エラのバイオ・フィードバック装置から供給される「生命のエントロピー」によって、独立したクローズ・サークルとして駆動し続けていた。

『バ、ガ…、エネルギーの指向性が、固定…され…』モニターの中で、有坂のAIゴーストが断末魔のノイズを上げる。

「終わりだ、有坂。どれだけ高次元の演算を行おうと、君は『すでに死んだ過去のデータ』にすぎない」椎名の指先が、流れるような速度で最終デバッグコードを確定させていく。

「僕たちは不完全で、間違えて、傷つけ合う。だけど、どのノイズまみれの日常を、意思の力で書き換えていくことができる。それが、生きているということだ。……姉さんが僕に遺してくれた、本当の『理(ことわり)』だ!」

椎名が最後のキーを叩きつけた。

EXECUTE TOTAL PURGE&MEMORY RESTORATION

閃光。研究室のすべてのディスプレイが眩い白に染まり、次の瞬間、吸い込まれるように漆黒の静寂が訪れた。世界中を覆っていた不気味な通信ノイズが完全に消失し、窓の外からは、夜明けを告げる街の静かな喧騒が聞こえ始めていた。

エピローグ:観測者たちの日常

数日後。すっかり元通りの平穏を取り戻した大学の研究室で、のあは「slabo」の画面を眺めながら、嬉しそうに声を上げた。

「お兄ちゃん、見て!『ゴースト・イン・データ』の記事、ものすごいアクセス数だよ!コメント欄も『記憶の量子化なんで最高にゾクゾクした』って大絶賛」

「当然よ」エラが最高級の豆で淹れたコーヒーを椎名のデスクに置きながら、不敵に微笑む。「私の量子生物学的なアプローチが、どれだけ洗練されているかを世界が証明したの。…ねえ、賢人。この記事のインセンティブで、今度美味しいものでも奢ってくれない?」

「努力しよう」椎名はパソコンの画面から目を離さずに、いつもの冷徹な、だがどこかrecruitment(親しみ)の籠った声で応じた。

「だが、今回の件で分かったことがある。有坂のバックにいた『不可視の力』――僕の記憶をハックし、10年前の引き金を引かせた組織の影は、まだ完全に消え去ったわけじゃない」

椎名は静かに立ち上がり、窓の外の青空を見つめた。天才サラリーマンとしての日常を守るため、そして姉の遺した世界を守るため、彼の戦いは、まだまだ始まったばかりだ。

「さて…のあ。次の記事のネタとして、今度は『量子もつれと人間の感情の相関関係』について講義を始めようか。ノートの準備はいいか?」

「ええっ、また難しいやつ⁉…でも、お兄ちゃんが教えてくれるなら、マジでレッツゴー、だよ!」

三人の笑い声が、初夏の風に乗って響いていく。世界の理(ことわり)の境界線上で、彼らはこれからも、不確実な未来を観測し続ける。

臨界のクオリア第2部—忘却のエントロピー(ゴースト・イン・データ-完-)

次回第三部『バタフライ・カオスー初期値鋭敏性の罠-』へ続く

臨界のクオリア第2部を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

クライマックスにおいて、ヒロインのエラ・ヴァンスがメインフレームに直結して放った「生命のエントロピー(バイオ・フィードバック)」。暴走するAIの演算をねじ伏せたあの圧倒的な光の描写は、決して単なるSFの嘘(ファンタジー)ではありません。「温かくノイズに満ちた生物の体内で、量子力学の奇跡が駆動している――」

そんな、現代科学の常識を覆しつつある最先端の学問こそが、作中のバックボーンとなった 「量子生物学」 です。エラが魅せた世界の裏側にある。刺激的な科学の真実を当ブログ「slabo」で分かりやすく解説しています。脳は生体量子コンピューターなのか、その目で確かめてください!

▼エラの放った「生命の波動」の正体に迫る解説記事はこちらから

🔗[量子力学×生命科学!「量子生物学」の刺激的な世界へようこそ]

次回

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