「賢人兄ちゃん!早くしないと、また朝ごはんさめちゃうよ」
朝7時。都内の日当たりの良いマンションのリビングに、エプロン姿の少女の元気な声が響き渡っていた。椎名賢人(28)(しいなけんと)のいとこで、この春から東京の大学に通うために上京してきた椎名のあ(18)だ。
「おはよう、のあ。心配しなくても、あと7分で家を出ればジャストで最寄りのバスにのれるさ」
ビシッと仕立ての良いスーツを着こなした賢人が部屋から姿を現わし、鏡を見ずに寸分の狂いもない動作でネクタイを締め上げた。
「もう!賢人兄ちゃんは相変わらず時計みたいにきっちりしすぎ!」
のあが呆れつつも嬉しそうにみそ汁をよそう。上京してきたばかりの彼女との同居生活は、単調になりがちな賢人の日常に、心地よい温もりを与えていた。————
夕方、17時45分。大手メーカーのマーケティング部オフィス。定時退勤まであと15分という刻限、賢人のデスクの横で、半泣きになりながら書類とPCを抱えて立ち尽くす人物がいた。
今年入社したばかりの新入社員—比嘉瑠菜(ひがるな)だ。
「うぅ……っ、賢人先輩ぁ…!た、大変なんです…っ!」
「どうしたんだい、比嘉さん。そんなに焦って」
賢人が手を止め見上げると、比嘉のボロボロと涙をこぼしそうな目で見つめ返してきた。
「今週の市場データの集計なんですけど…何回検算しても、最終的な数値の辻褄がどうしても合わなくてっ…もうすぐ定時なのに、私のせいで課全体の提出が遅れちゃいます…っ!足を引っ張っちゃって、本当にごめんなさい…っ」
パニックを起こして泣きつく比嘉に、賢人は取り乱すことなく静かに微笑んだ。
「どれ、見せてごらん」
賢人は比嘉のPC画面を一瞥すると、流れるような手つきでキーボードを叩き始めた。打鍵音が心地よいリズムを刻む。
「…なるほど。3行目のマクロ関数に、参照セルの1列分のずれがある。データそのものの拾い出し、君が完璧にやってくれていたよ。ほら。これで整合性が取れた。
デバッグ完了だ」
「ふぇ…⁉一瞬で直っちゃった⁉…ほんとだ、数字がピッタリ合ってる…っ!」
さっきまでのパニックが嘘のように一瞬で解決し、比嘉はパッと目を輝かせた。
「すごい…!賢人先輩って、本当に魔法使いみたいです…!」
「魔法じゃないよ、ただの論理(ロジック)さ」
賢人はPCを返すと、眼鏡のブリッジをスッと押し上げた。
「比嘉さん。君が集めてくれたこのデータ、集計の着眼点が実に素晴らしい。実は今、僕が個人的に追っている『ある科学的データの検証』があってね。…もし時間があるなら、僕の社外の『秘密基地』に来てみないか?君のその優秀な視点を貸して欲しいんだ」
「えっ…⁉賢人先輩の秘密基地…⁉わたしなんかで良ければ、喜んでついていきますっ‼」
こうして、賢人は初々しい比嘉をスカウトし、雑居ビルにある『slabo(エスラボ)』の事務所へと連れていくのだった。
「ここ…ですか?」
賢人に促され、雑居ビルの急な階段を登り切った比嘉は、重厚な木製ドアの前でゴクリと生唾を飲み込んだ。賢人が静かにドアノブをまわして中へ入ると、比嘉は緊張で肩をすくめながらその後に続く。だが、一歩足を踏み入れた瞬間、比嘉は思わずパッと目を輝かせた。
「わぁぁ…!すごい…!まるで隠れ家カフェみたい…!」
使い込まれた温かみのある木製フローリングに、ヴィンテージの書棚。部屋の中央には、ドカンと存在感を放つ大きな木製丸テーブル。窓からやわらかな光が差し込み、ほのかに上質な茶葉の香りが漂っている。
オフィスというよりは、誰もが長居したくなるような洗練されたリラックス空間だった。
その時、奥のカフェスペースから、黒髪をすっと揺らした一人の女性が洗練された手つきでティーポットを手に歩み出てきた。
東洋的な静謐さと、吸い込まれそうな知性を纏った美しい女性—エラ・ヴァンスだ。
「賢人、お帰りなさい。…あら、その子は?」
エラが優しく微笑みながら、温かい紅茶のカップを丸テーブルへ置く。
賢人は静かに眼鏡のブリッジをスッと押し上げると、比嘉の背中にそっと手を添えて紹介した。
「ことらは、僕の会社の後輩で比嘉瑠菜さん。…彼女のデータの分析センスと才能を見込んで、今回の件で協力を頼んだんだ」
「えっ⁉は、はいっ!新入社員の比嘉瑠菜ですっ!よろしくお願いしますっ!」
「才能」と言われて顔を真っ赤にした比嘉は、直立不動で深々と頭を下げた。
賢人は続て、エラの方を指し示して比嘉に語りかける。
「比嘉さん、彼女はエラ・ヴァンス、僕たちのブレインであり、『量子生物学』の専門家だ。この事務所…Webメディア『slabo(エスラボ)』の精神的支柱でもある」
「りょ、量子生物学…⁉なんか凄そうな響き…!」
比嘉が目を丸くしていると、エラはふふっと柔らかく目を細めた。
「よろしくね、比嘉さん。賢人が人をここに連れてくるなんて珍しいのよ。…さあ、冷めないうちに温かい紅茶をどうぞ」
「あ、ありがとうございますっ…!」
そこへ、奥の給湯スペースから焼き立てのクッキー皿をもった少女が元気に飛び出してきた。
「賢人兄ちゃんおかえり~!えっ女の子⁉やったー!私、賢人お兄ちゃんのいとこの『のあ』だよ!のあって呼んでね!クッキー食べる?」
「のあちゃん⁉わぁ、いただきますっ!」
一瞬で打ち解けるのあと比嘉。
緊張感がすっとほぐれた比嘉の目の前で、エラが注いだアッサムティーの湯気がふわりと立ち上がり、大きな丸テーブルを囲む「チームslabo」の物語が、いま静かに動き始めたのだった。
カツンー、カツンー。
その時、重厚で規則正しいヒール音が、急な階段を一段ずつ踏みしめるように近づいてくる。ドアが静かに開き、立ち現れたのは身長172cmの抜群のスタイルを誇る美女。黒の洗練されたパンツスーツにダークグレーのロングコートを纏い、初対面の比嘉たちを一瞥すると、不敵で魅惑的な笑みを浮かばせた。
「…賑やかね。ここが噂の『slabo』かしら」
「どちら様でしょうか?」
賢人が静かに立ち上がると、女性は胸ポケットから、すっと警察手帳を取り出し、提示してみせた。金の紋章が部屋の証明を浴び鋭く光りを放つ。
「警視庁捜査一課、藤堂玲香(とうどうれいか)よ」
帝都大学卒のエリートキャリアー本来なら現場に出ず本部で指揮を執る立場でありながら、彼女は上の制止を突っぱねて現場を走り回っていた。
『現場にしか真実(ホシ)はない。上の書類に騙されるな、玲香』叩き上げの老刑事・神崎からの徹底的に叩き込まれたその『現場主義』の教えこそが、彼女の強い信条(ハート)を作り上げていた。
「—椎名賢人、あなたに緊急で協力を求めに来たわ」
警察手帳の輝きと藤堂が放つ圧倒的な威厳に押され、比嘉は抱えていたノートPCをぎゅっと抱きしめながら「ひぇっ」と声を漏らした。
藤堂は手帳をポケットへ収めると、大きな丸テーブルの上へ一枚の事件現場写真と暗号化されたデータ端末を滑らせた。
「現場は完全な密室。…鑑識の連中はお手上げよ。あなたのその絶対的なロジック、見せてもらえるかしら?」
エラが静かに新しいカップへ温かいアッサムティーを注ぎ、藤堂の前へと差し出す。
「ようこそ、藤堂警部。…どうやら、面白いデバッグの始まりのようね」
賢人は眼鏡のブリッジをスッと押し上げ、丸テーブルの資料に視線を落とした。
「いいでしょう、藤堂さん。—その科学、デバッグします。」
『天才サラリーマン椎名賢人の事件簿‐その科学デバッグします‐』第1部 第1話:日常の崩壊とモデル刑事の来訪【完】
次回第2話:[『密室のバグと、バケモノの超思考』はこちら➡]


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