科学小説『メフィストフェレスの計算』第4章知識の終着点

第10話『貯蔵庫のパスワードと光速の壁』

【秘密の施設への侵入】

椎名研人と御子柴梓は、夜の闇に紛れて、かつて「Red dust」プロジェクトが進められていた、郊外の廃墟となった研究施設にたどり着いた。施設は電力も警備も停止しているが、最深部の地下には、椎名がかつて設計した量子情報貯蔵庫QuIS:Quantum information Storage)が眠っている。

「QuIS」には、私が設計した『量子もつれ』転送システムの最終設計図と、致命的な欠陥(バグ)に関する論文が残っている」

椎名は、錆びた鋼鉄製の扉の前に立った。扉には、最新鋭の量子ロックが施されている。

「このロックは、通常のスーパーコンピューターでは、宇宙の寿命が尽きるまで解読できません」

御子柴は青ざめた。

「ええ。だが、この暗号のアルゴリズムを設計したのは私です」

【科学解説:量子暗号と光速の壁】

「この量子暗号は、素因数分解ではなく、光速(c)の物理定数を基準とした時間差アルゴリズムに依存している。暗号を解除するためのは、特定の光信号を送信してから、その反射を受信するまでの時間の精度によって決定される」

「この距離で光の往復にかかる時間は、約5.0003×10-7 秒しかし、私の計算では、このロックはその時間の後に、さらに4.7936×10-19秒の遅延を認識する必要がある。この極めて微細な『遅延時間』こそがパスワードだ」

椎名のロックのセンサーに小型の光ファイバーを接続し、自作の超精密パルス発生器を起動させた。

「この遅延は、私が『Red Dust』プロジェクトから離脱する際に、『光速の壁』に挑戦しようとする傲慢な思想への戒めとして、意図的に組み込んだものだ」

彼の指がキーパッドを叩く。彼は単なる数字ではなく、科学の理念を打ち込んでいる。カチッという小さな音を立てて、強固な扉が解除された。

【真のメフィストフェレスの出現】

貯蔵庫の内部は、異様なほどに整然としていた。中央には、最新の量子コンピューティング機器が設置されている。そして、その前に、一人の老教授が立っていた。

「久しぶりだね、研人(ケント)。やはり、君が来るとわかっていたよ」

その声は、椎名が心の底で恐れていた、「メフィストフェレス」の真の核心人物の声だった。かつて椎名の指導教官であり、「Red Dust」プロジェクトのリーダーだった相沢徹(あいざわとおる)教授。

「相沢教授……生きていたんですか。あなたは、あの事故で……」

「事故?フフフ。あれは、知識の価値を理解しない君を排除するために、私が仕組んだ科学的な『調整』だよ」相沢は冷たく笑った。

「君は、量子のもつれを『情報の瞬時転送』ではなく、『情報の絶対的な支配』に使うことを拒んだ。だが、君の設計したQuISは、私が量子コンピューティング技術を統合し、『知識の神』となるための、最高の貯蔵庫だ」

相沢は、彼の最終的な野望を明らかにした。

「私が狙っているのは、単なる特許ではない。人類のすべての知識を、もつれを利用して瞬時に集積し、予測し、そして書き換えること。私は、『世界の計算』そのものになるのだよ、研人」

椎名の顔に、深い野望と、それを凌駕する決意が浮かんだ。彼のトラウマが、今、最大の敵として目の前に現れた。

「許さない。あなたの『計算』は、科学の心を失っている!」

椎名と、真のメフィストフェレス」の、最後の科学的対決が始まろうとしていた。

第11話:『情報の絶対的支配と不確定性の抵抗』

【対決の開始と相沢の野望】

貯蔵庫の奥、最新鋭の量子コンピューターを前に、椎名研人と相沢徹教授は対峙した。相沢は、量子もつれを利用した情報の瞬間集積システムを起動させようとしていた。

「研人、君はまだ、『Red Dust』の悪夢に囚われている。あの悲劇は 、君が知識を隠そうとしたから起きたのだ。私はそれを乗り越える。このシステムが完成すれば、地球上の全てのデータ、全ての個人の思考傾向が瞬時にもつれ合い、私の『計算』の下に置かれる!」

「あなたは、科学を支配の道具にしようとしている。それは、人類の自由だけでなく、科学の根源的な精神に対する冒涜だ!」椎名は、静かに怒りを込めた。

【科学解説;不確定性原理と情報の支配】

相沢のシステムは、量子コンピューターを使い、地球規模の量子もつれネットワークを構築し、情報の絶対的な観測を目指していた。しかし、椎名は、その野望が、量子力学の最も基本的な法則によって打ち砕かれることを知っていた。

「あなたは、ハイゼンベルクの不確定性原理を無視している!」椎名は叫んだ。

不確定性原理とは、量子力学の基本原理であり、粒子の位置と運動量を同時に正確に決定することは不可能である、という法則である。これは、『観測行為そのもの』が、観測対象の状態を変化させてしまうという、情報の根源的な限界を示している。

「情報の集積には、観測が不可欠です。あなたは、地球上の情報を全て集積しようとしているが、その観察行為の瞬間、あなたはその情報の安定性を破壊している!あなたのシステムは、情報を得れば得るほど、エラーを蓄積していく」

【椎名が仕込んだ最後のバグ】

相沢は冷静だった。「その程度の誤差は、AIの自己修正で賄える。私のAIは、君の知る『計算』を遥かに超えている」

「いいえ。私がQuISに仕込んだバグは、単なる計算誤差でない」

椎名は、懐から取り出した極小のチップを、量子コンピューターの制御盤に接続した。

「『Red Dust』の最終論文には、『量子もつれを利用した転送したシステムにおいて、観測者が自身の情報(意識)をシステムに組み込んだ際、不可逆的な『相違のズレ』が生じる』という結論が記されている。あなたが狙う『情報の絶対的支配』の瞬間、あなたの自己観測がシステムのシード値となる」

椎名が仕込んだチップは、この「位相のズレ」を増幅させるためのトリガーだった。

「私のバグは、『情報の自己参照』によって、システムの不確定性を無限大に発散させるように設計されている。システムが、相沢教授、あなた自身の情報を読み込み始めた瞬間、それは『バタフライ効果』を伴って暴走する!」

【システムの崩壊】

椎名のチップが起動すると、量子コンピューターの冷却液が激しく沸騰し始めた。相沢のAIは、エラーを修正しようと試みるが、システムそのものが自己矛盾に陥っているため、エラーは雪だるま式に増大していく。

「馬鹿な!この計算は、完璧なはずだ!」相沢はパニックに陥った。

「完璧な計算など、この宇宙には存在しない!それが、ハイゼンベルクの警告であり、科学者が超えることのできない倫理の壁だ!」

相沢の「情報の絶対的な支配」の野望は、彼自身の「自己観測」という、科学の根源的な限界によって打ち砕かれた。システムは轟音と共に機能停止し、相沢は知識の神となる夢を失った。

【エピローグ】

相沢は逮捕され、「メフィストフェレス」の組織も崩壊した。御子柴は、椎名が天才科学者として過去のトラウマを乗り越えた瞬間を目撃した。

数日後、東亜電機の経理部。椎名は再び、電卓と簿記のテキストを前に、静かに座っていた。

「椎名さん、もう逃げなくていいんじゃないですか?あなたの才能は……」

椎名は穏やかな目つきで答えた。「私は、科学の悪用を防ぐために、知識を隠した。しかし、相沢教授の傲慢さは、知識を隠すことではなく、科学の真の法則を無視することから生まれた」

「私の『計算』の仕事は、まだ終わってはいません。この世界には、熱力学、電磁波、そして量子力学を悪用しようとする人間は、これからも現れるでしょう。私は、普通のサラリーマンとして、見過ごされた小さな真実から、彼らの完璧な計算を打ち崩し続けます」

椎名は、自分の居場所を「普通の社会」の中に見出した。科学の知識は、人知れず、世界を陰から守り続ける。天才サラリーマン探偵の『メフィストフェレスの計算』は、こうして続くのだった。

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