科学小説『メフィストフェレスの計算』

第2章:溶解する知識

第4話『不確定な密室と溶解の科学』

【事件の概要】

椎名研人が再び事件に巻き込まれたのは、とある大手化学メーカーの研究施設。開発中の「超高耐久プラスチック」の特許権を持つ主任研究員、橘涼子(たちばなりょうこ)が、自身の研究室で変死体となって発見された。

現場の状況

1. 研究室は、警備システムによって厳重に管理されており、「電子密室」の状態。入退室ログによると、橘が入室した後は、外部からの入室記録は一切ない。

2. 橘の死因は、青酸カリによる中毒死と見られるが、現場には毒物が飲まれた形跡も、凶器となるような物は見つかっていない。

3. 遺体の手元には、使い古された金属製の注射器が握られていたが、その針先は激しく腐食し、半分ほど溶解してしまっていた。

【椎名の推理と物理化学の壁】

警察の捜査に同行した御子柴は、椎名に連絡を入れた。

「椎名さん、これは完璧な密室です。電子ロックのログは完璧だし、警察は自殺の線も視野に入れています。でも、変なんです。橘さんはなぜか、使い古した注射器を握りしめていて、しかもその針が…溶けているんですよ?」

東亜電機の経理部デスクで、椎名は渡された現場写真のデータを凝視した。

「電子密室、そして青酸カリ…さらに『溶解する凶器』ですか。犯人は今回、『化学反応の時間差』トリックを使った」

「時間差?」

「青酸カリは即効性の毒物。彼女が自分で注射したなら、遺体はすぐに倒れているはずです。しかし、溶解する針は、反応に時間が必要なことを示している」

椎名は立ち上がり、ホワイトボード(経理部の予算会議用だが、今は彼の思考実験の場だ)に一本の数式をかきだした。

反応速度=k[A]m[B]m

【科学解説:化学反応速度論】

「これは反応速度式です。化学反応がどれくらいの速さで進むかを示す式で、物質の濃度や温度が影響します。針が『溶解』したということは、犯人は橘氏に毒を投与した後、時間差で証拠を消し去る化学反応を仕掛けた」

『針は金属製。それを溶かすには、非常に強い酸(または塩基)が必要です。しかし、即座に溶けてしまっては、橘氏の手に握らせる時間がない。ここで犯人はトリックをつかいました』

椎名は、溶解した針の写真を拡大した。

『注射器の針は、おそらくステンレス鋼。これを短期間で溶かすには、王水(濃塩酸と濃硝酸の混合物)のような劇薬が必要です。しかし、王水を直接使ったなら、橘氏の手にまで薬液がこぼれ、皮膚もただれるはずですが、その形跡はない』

「では、どうやって?」

「犯人は、『反応を遅らせる物質』を使った。具体的には、『保護層を形成する物質』です。例えば、注射器の針先に、特定の有機物の幕や、溶解性の低い酸化物の薄膜をコーティングしておく」

「毒物を注射した瞬間、針は橘氏の体内に。そして犯人は、針先を溶かすための『触媒』となる物質を外部から、あるいは注射器自体に仕込んだ」

【密室の突破口】

椎名は、「溶けて証拠が消える凶器」のアイディアに感嘆しつつ、電子密室の鍵を探した。

「密室の突破口は、『電子ロックの原理』にあります。電子ロックのログは、『人が物理的に扉を開けた事実』しか記録しません。犯人は、扉を開けずに、橘氏を殺害し、注射器を回収した可能性がある」

「そんなこと、物理的に不可能でしょう?」御子柴が戸惑う。

椎名が着目したのは、研究室の排気システムだった。

「青酸カリの毒物は、液体、あるいはガス状でも殺傷能力を発揮します。橘氏の死因は青酸カリと特定されましたが、もし犯人が、排気口や空調システムを利用して青酸ガス(シアン化水素)を極少量、室内に流し込んだとしたら?」

【科学解説:気体の拡散と微量分析】

気体の拡散は、熱運動によって時間とともに自然に広がっていく現象。排気システムを操作できる人間が、極微量の青酸ガスを『時間の矢』に乗せて、室内に送り込んだ。このガスは、すぐに排気システムで排出されるため、現場には残らない。これで密室のまま、橘氏を中毒死させることが可能です。」

「しかし、注射器は?ガスでどうやって注射器を橘さんの手に握らせるんですか?」

「これが、この事件の最大の科学的パズルです。ガスを注入し、死亡を確認した後、物理的な接触なしに、溶解途中の針を持つ注射器を遺体の手に握らせる方法。犯人は、注射器と針を溶解させる、そして『磁力』『遠隔操作』、あるいは『化学反応による機械的動作』の、いずれかの高度な科学技術を応用している」

椎名は、橘氏の遺体の手元にある注射器が、なぜ「使い古された金属製」だったのか、その理由を考え始めた。それは、磁性を帯びた素材である可能性、あるいは化学反応で溶ける素材でできた特殊なメカニズムだったかもしれない。

彼の天才的な計算は、科学の反応時間と物理の遠隔操作が交差する、新たな領域に突入した。

第5話:『粘性と溶解の科学』

 【物理的な接触の謎】

椎名は、「ガスで中毒死させ、物理的な接触なしに注射器を手に握らせる」という矛盾点に集中した。

「化学反応による証拠隠滅と、電子密室。この二つを結びつけるのは、『遠隔操作』、それも『時間をかけた遠隔操作』です」

御子柴は戸惑う。「遠隔操作?ドローンか何かですか?」

「いいえ。そんな大掛かりなものは入退室ログに残るか、音で気づかれます。もっと静かで、科学的で、低コストな方法です。注射器は、橘氏が座っていたデスクの上にあったはず。犯人は、彼女の死後、注射器を滑らせて手に届かせた」

椎名は、橘氏の研究室の床と、注射器の写真を拡大した。

「鍵は、溶解した針を覆っていた『保護層』です。あのコーティングは、毒物投与後に徐々に溶け、針をむき出しにして溶解させる ためだけにあったのではない。それは、注射器を移動させるための『潤滑剤』でもあった」

【科学解説:粘性の応用と毛細管現象】

椎名が指したのは、写真に写り込んでいた、床の僅かなシミだった。

「犯人は、あらかじめ研究室の床、あるいはデスクの床面に、粘性の高い液体で目に見えない細い『道』をつくっていた。そして、注射器の特定箇所に、ゆっくりと揮発する高粘性の特殊な化学溶剤 を仕込んでおく」

「溶剤?何のために?」

「溶剤が揮発しきると、注射器は自重で『道』の上に滑り落ちます。その『道』の素材は、注射器を橘氏の手に届かせるための潤滑剤、あるいは引力を生み出すための『粘性(Viscosity)』 を持つ液体です。」

「粘性とは、流体の流れにくさを示す性質(例、ハチミツは水より粘性が高い)。犯人は、特定の化学物質を使い、非常に低い速度で動く『液体ベルトコンベア』を作り上げた。さらに、注射器の磁性を使用し、デスクの下に設置した微弱な電磁石で、時間差でわずかに引く力を加えた可能性もあります」

しかし、注射器を手に届かすだけでは、「握らせる」ことはできません。

椎名は、溶解した針の根元近くにある、微細なくぼみに注目した。

「注射器は、二段構えのトリックです。青酸ガスで橘氏が死亡した後、この注射器が作動する。針の溶解に使われた酸は、注射器の内部に組み込まれた特殊なワイヤーを、毛細管現象によって伝って登り、トリガーを引いた」

【科学解説:化学反応による機械的動作】

「毛細管現象とは、水が細い管中を重力に逆らって昇っていく現象です。この力は非常に小さく見えますが、正確に設計された『科学時計』のトリガーとして利用できます」

「犯人は、注射器の内部で、酸と塩基がゆっくりと反応する緩衝液をセットしていた。酸の濃度が時間とともに変化し、特定の時間が経過した瞬間、その酸が細い管(毛細管)を通じてワイヤーを溶かし、バネ式のメカニズムを作動させる」

「そのメカニズムこそ、橘氏の手に注射器を握らせるためのものだった。つまり、溶解した針を持つ注射器は、橘氏が自殺を試み、失敗して凶器が溶けたようにみせかけるための『化学的に作動する証拠』だったのです。」

【真犯人への接近】

椎名の推理が全て繋がった。

1.青酸ガスの少量注入(電子密室の維持)

2.粘性潤滑剤と磁石による注射器の移動

3.毛細現象を利用した科学時計による「握らせる」動作の実行

すべてが、化学反応速度論と物理学の微細な力を極限まで応用したトリックだった。

「このトリックを実行できるのは、橘氏の研究内容に精通し、特殊な化学物質と高度な電子部品を扱える人物。そして、橘氏が『ある一点』に執着していることを知っていた人物です」

御子柴が、事件後に警察が押収し橘氏の研究ノートのコピーを取り出した。最後のページに、橘氏が血の滲むような力で書き残した、短いメッセージがあった。

『P-237…』

椎名の顔つきが変わった。

「これは、特許出願中の超高耐久性プラスチックの組成式のコードネームです。しかし、このコードの末尾に、『M』というアルファベットが書き足されている…」

「M?」

「メフィストフェレス…まさか、このトリックは、第三者の天才が犯人に提供した『計算』ではないか?」

新たな「科学の闇」の存在を感じた椎名は、静かに、しかし決然とした表情で、次の計算に取り掛かった。

第6話『P-237/Mの暗号と共犯者の影』

【コードネームの解読】

椎名は、橘涼子の研究ノートに残された「P-237…M」のメッセージが、単なる技術的なコードではないと確信した。

「P-237は、超高耐久プラスチックの特許組成式。そしてMは…メフィストフェレスです」

御子柴は息をのんだ。「最初の事件(加賀美隼人による時間トリック)も、今回の溶解密室トリックも、あまりに巧妙で完璧すぎました。あれは、科学の知識を『道具』として完璧に使いこなせる者が仕立てたもの…まさか、トリックを犯人に提供する裏の天才がいると?」

「ええ。加賀美隼人は、確かに電磁波と冷却の法則に詳しかったが、今回の毛細管現象と溶解の化学時計を同時に設計するほどの多岐にわたる知識はない。橘氏もまた、化学の専門家でしたが、電子密室の物理法則を組み合わせた脱出方法までは設計できない」

椎名は、自身の過去の記憶を辿っていた。彼が科学の世界から身を引いた理由の一つに、「科学の功罪」に対する深い失望があった。その闇の片鱗が、今、目の前に現れている。

「橘氏は、自身の研究が『メフィストフェレス』と呼ばれる闇の組織、あるいは個人に狙われていることに気づき、最後の瞬間に、そのイニシャルを遺した。犯人は、彼女の特許を狙う共犯者、あるいは雇われた実行犯です」

【新たな容疑者:元研究者・白石】

警察の再捜査により、橘氏の研究室の元同僚で、現在は競合他社で類似の研究をしている白石悠馬(しらいしゆうま)という人物が浮上した。彼は、橘氏と特許を巡って激しく対立しており、白石の研究室の経費から、今回のトリックに使われた高粘性の特殊な化学溶剤の購入記録が見つかった。

「白石が実行犯で間違いない。彼は、橘氏の特許を奪う動機があり、化学知識も持っている」と御子柴は確信した。

しかし、椎名は首を振った。

「白石が実行犯である可能性は高い。彼は粘性溶剤を購入し、注射器のトリックを仕掛けたのでしょう。しかし、あの溶解する針と、毛細管現象を利用した作動機構は、彼の知識レベルを遥かに超えている」

「なぜそう言い切れるんですか?」

椎名は、白石氏の過去のトリックの構成を比較した。

「白石氏の論文は高分子化学に特化している。彼に、金属の腐食化学や流体力学(毛細管現象)の高度な知識はない。このトリックは、複数の科学分野を統合した設計です。白石氏は、この『メフィストフェレス』から、トリックの設計図と必要な特殊溶剤を『購入』したに過ぎない」

【科学者の倫理と問い】

椎名は、犯人グループの動機は特許だけでないと感じ始めていた。彼が目指すのは、「科学の完璧な悪用」、そして「法則の支配」ではないかと。

「『メフィストフェレス』の目的は、単なる金儲けではない。彼らは、科学知識を悪用することで、自分たちがこの世界の法則を支配できると証明したい。事件の全てが、『科学の知識があれば、犯罪は完全犯罪になり得る』というメッセージを発している」

御子柴は背筋が寒くなった。単なる殺人事件ではなく、科学的テロリズムの萌芽を見ているような気がしたからだ。

「じゃあ、白石氏を追い詰めても、真の黒幕には辿り着けない?」

「ええ。ですが、白石氏の犯行を証明する過程で、彼が『メフィストフェレス』と接触した証拠が見つかるはずです。特に、連絡に使われた暗号化通信や、特殊な取引記録が」

椎名の「計算」は、今、化学と物理から情報科学と暗号理論へと移行していた。天才サラリーマン探偵は、自ら才能を隠し続けた理由となった「科学の闇」と、正面から対峙する準備を始めていた。

【次なる謎】

椎名は、白石氏のパソコンから発見された、不自然な「乱数列」のデータを見つめていた。それは、何の変哲もないノイズの羅列に見えるが、彼の目には、複雑な数学的規則が見えていた。

「これは、ただの乱数ではない。特定の物理定数に基づいて生成された、一回限りの暗号だ。おそらく、この中に『メフィストフェレス』との接触を示す、次の標的のヒントが隠されている…」

事件の舞台は、科学の法則を巡る、より大きく、知的な戦いへと移ろうとしていた。

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