科学小説『メフィストフェレスの計算』

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第5章:光の屈折と存在の証明

第12話『白昼の「透明な」略奪者』

【日常の違和感

東亜電機の経理部。椎名研人は、会社が協賛している「光の美術館」の設営費用の伝票を整理していた。

「椎名さん、見てくださいこれ!」

御子柴がタブレットを抱えて駆け寄ってきた。ニュース画像には、厳重な警備を誇る美術館から、白昼堂々、時価数億円の「伝説のダイヤモンド」が消失したという速報が流れていた。

「防犯カメラには犯人の姿どころか、不審な動きすら一切映っていないんです。展示ケースの中から、ダイヤだけが『消えた』みたいに….」

椎名は伝票の手を止め、ふと目を細めた。

「御子柴さん、この美術館の照明器具の特注リストに、不可解な項目があります。『テラヘルツ波対応の特殊誘電体』。これは、照明の演出に使うにはあまりにオーバースペックだ」

【現場の「計算」】

二人は現場を訪れた。そこには、何一つ壊されていない無傷の展示ケースがあった。

「警察は、内部の犯行か、あるいは映像がハッキングで差し替えられたと考えています」と御子柴。

椎名はケースの周囲を歩き、ポケットから取り出したレーザーポインターを壁に向けて照射した。

「いいえ、映像は本物です。犯人はカメラをハッキングしたのではない。『光そのもの』をハッキングしたんです」

椎名が指し示したレーザーの光が、何もない空間でわずかに、ほんの数ミリだけ「曲って」見えた。

【科学解説:メタマテリアルと負の屈折率】

「犯人が使ったのは、メタマテリアル。自然界には存在しない構造を持つ人工物質です」

【参考】メタマテリアルについてはこちらの記事をどうぞ

通常、光は水やガラスに入ると一定の方向に屈折します。これはスネルの法則で説明されます。

sinθ1=n2sinθ2

「しかし、メタマテリアルは負の屈折率を持つように設計できます。これを利用すると、光を物体の周囲に沿って迂回させ、再び元の直進方向に戻すことができる。つまり、光がそこにある物体を『避けて』通るため、背後の景色だけが見え、物体そのものは透明化(クローキング)されるのです」

「透明人間……そんなSFみたいなことが?」

「ええ。これまでは微細な電波の世界の話でしたが、近年のナノテクノロジーは、ついに目に見える可視光線の帯域でも、限定的な『透明化』を可能にしています。犯人は、展示ケースの内側に、このメタマテリアルを応用した極薄のフィルムを配置し、特定の角度から自分が『見えなくなる』死角をつくり出した」

【科学のすばらしさと危うさ】

椎名は、展示ケースの台座の裏側に、米粒ほどの小さな超音波発信機を見つけた。

「メタマテリアルを特定の周波数で振動させ、屈折率をリアルタイムで制御していた形跡があります。これは、単なる盗賊の仕業ではありません。光の性質をここまで自在に操れるのは……」

椎名の脳裏に、壊滅したはずの「メフィストフェレス」の残党、あるいはその技術を継承した「新しい知性」の影がよぎった。

「科学は、私たちに『見えないものを見せる』力もあれば、『あるものを見えなくする』力もあります。私は、この光の迷宮から、犯人の足跡を計算で導き出してみせます」

椎名の瞳には、屈折した光のその先にある、真実の輪郭が見えていた。

第13話:『熱放射が暴く「透明な」影』

【完璧な死角の綻び】

「椎名さん、目に見えない相手をどうやって捕まえるんですか?まるで幽霊を相手にしているみたいです」御子柴は、何もない空間を指差す椎名の横で震えていた。

「御子柴さん、安心してください。光学的に透明になっても、『熱力学の法則』からは逃げられません」

椎名は美術館の管理室へ向かい、空調システムの出力を最大にするように指示した。「犯人はメタマテリアルで可視光線を迂回させていますが、それはあくまで特定の波長の話です。人間がそこに存在している以上、必ず体温があり、周囲の空気を動かしている」

【科学解説:シュテファン=ボルツマンの法則】

「物体は、その温度に応じてエネルギーを電磁波として放出しています。これを放射熱(熱輻射)と呼びます。人間であれば、約36.5℃の熱源として赤外線を放出し続けているのです」

P=σAeT4

※P:放射エネルギー、σ:定数、A:表面積、T:絶対温度

「可視光線を曲げるメタマテリアルであっても、この赤外線領域の熱放射まで完璧に制御し、背景の熱分布と完全に一致させるのは、現在の技術では不可能です。さらに……」

椎名はポケットから、経理部で愛用している「フリクションボールペン」の替え芯を取り出した。「このインクは一定の温度で透明になりますが、逆に言えば、温度変化に極めて敏感です。私は、設営の際、あらかじめ展示ケース周辺の空気に、特定の温度で反応する微細な感音性マイクロカプセルを散布しておきました」

【「影」の出現】

椎名が空調の温度を急激に下げた瞬間、何もないはずの空間に、人の形をした「歪み」が浮かび上がった。冷やされた空気の中で、犯人の体温によって暖められたマイクロカプセルだけが変色し、まるで「透明人間の輪郭」を描き出した。

「そこだ!」

御子柴が駆け寄り、その「歪み」を組み伏せた。地面に叩きつけられた衝撃で、犯人が身に纏っていた極薄のハニカム構造フィルムが破れ、中から一人の男の姿を現した。

第14話:『観測者の敗北』

犯人の正体と動機

捕まったのは、美術館の照明デザインを担当していた若手技術者だった。彼はかつて相沢教授の教え子であり、「メフィストフェレス」の思想に心酔していたという。

【犯人の問いかけ】

連行される直前、犯人の技術者は震える声で椎名に問いかけた。「……教えてくれ。なぜ、お前は私がここを通ることを知っていた?なぜ、ピンポイントで私の体温をあぶりだす準備ができたんだ!?」

【椎名の「計算」の始まり】

椎名は冷静に、手に持っていた経理書類の束を見せた。「あなたが負けたのは、私の予知能力ではありません。あなたが会社に提出した『伝票』の数字です」

1.異常な屈折率の推計

「この『光の美術館』の設営予算の中に、『テラヘルツ波対応の特殊誘電体』

という項目がありました。一般的には次世代通信に使われる高価な素材ですが、あなたが発注した量は、照明の装飾に使うにはあまりに中途半端だった。私はその素材の物性と発注量から、あるシミュレーションを行いました」

2.物理的な逆算

「その素材をハニカム構造で並べた場合、特定の波長の光を迂回させる『負の屈折率』を生じさせることができる。つまり、展示ケースの周囲に『死角』を作る計画があることを、私は設営の1週間前に計算で導き出していたんです」

3.「保険」としての科学

「もし私が間違っていれば、散布したマイクロカプセルはただの塵として消えるだけ。しかし、計算が正しければ、それは『見えないものを見せる』唯一の手段になる。私は常に、複数の物理法則が示す可能性を検討し、その全てに『保険』をかけています」

 【結論】

「あなたは光を支配しようとしましたが、『物質の収支』という経済の基本と、『熱放射』という熱力学の基本を忘れていた。それが、あなたの計算ミスです」 犯人は力なくうなだれ、パトカーへと連行されていった。

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